COMITIA146 戦利品雑多感想

 コミティア146に行った。

 いつも通り漫画の島はを全サークル回るつもりでいたのだが、青年漫画の島を一舐めしたところで友人と合流したので全部というわけにはいかなかった。

 というのも、携帯の電池が切れそうだったので時間を指定して合流せざるを得なかったのだ。そもそもその友人との朝の待ち合わせには遅刻していて、待機列に並んでいる間の話し相手という第一の目的は既に破綻していた。折角誘ってくれたにも関わらず不甲斐ない失態に申し訳ない気持ちでいっぱいだ(彼には帰りに牛カツを奢った)。

 

 そういう失態がありつつも、コミティア自体は非常に実りあるものだった。

 というわけで今回は、現地で買った漫画の感想を書いていこうと思う。

 いつもはできるだけ読み込み、作者の来歴なども多少は調べたうえで書くことにしているのだが、ただでさえ筆が遅いのにそんなことをしていると永遠に書き終わらない。 今回紹介する作者の中にはネットで漫画を公開している人などもいて、本当はそれらもちゃんと目を通してから書くべきだということは承知の上で、今回ばかりはご容赦願いたい。(もしエゴサしてる人がいたら観測しているうちに書き上げたいという気持ちもある。)

 

 

米田タロウ『カボチャ頭と迷子娘』

 ハロウィンを舞台に、悪魔に魂を売って生きながらえる亡霊ウィルと、亡霊の街に迷い込んだ少女アンナの話。

 60ページ程度の小品ながらキャラクターの立ち具合やバックグラウンドの描写は決して物足りなさはない。強いて言えば、「ろくでなし」と言われているウィルがただの口の悪い善人にしか見えないところくらいか。読切として書いたと書かれているが、どこかに掲載されたりしたのだろうか。それくらい調べてからから書けという話だが。

 

清水幸詩郎『スライムだけど愛してる。』

  〃  『タコで、ごめんね。』

 1冊目は既刊で、黒いスライムの「泥沼君」と、彼と付き合っているなゆた君の淡い青春物語……なのか? スライムである泥沼君の異物感と、それと対照的な人間らしい心の交流、なゆた君の悲惨きわまる生活環境、そこから絞り出される「人間なんて大嫌い」というモノローグ。はっきりと迫ってくるものがありながら、こちらに何も訴えかけてこない不気味さがある。

 2冊目は新刊。身体が魚介類に変身していってしまう「先祖返り」現象が一般化した世界を舞台に、タコになってしまう主人公と先祖返り現象に興味津々な友人の物語。意に反してタコへと変化していく不穏さと、互いに救い合うような二人の関係性の眩しさが対照的だ。今回買ったこの作者の本はこの2冊だが、明るさと暗さの対比の仕方や世界観の提示の仕方はかなり好みだ。絵柄の味もいい。

 

路地裏兎『魔女の助手レベッカの日常』

 〃  『魔女シャルロッテの後片付け』

 世界観を共有している2冊。科学技術の発展する現代を舞台に、「魔女」―――この呼称は「魔女術を使う者」という意味であって生物学的性別は問わないらしい―――がひっそりと生きる様を描く作品。絵が上手い。

 この作品群で言うところの「魔女術」は薬草学の延長上にあるようで、自然由来の材料に依存している。そのため都市化に伴い、ほとんど魔女の命脈は途絶えようとしている、という舞台設定だ。

 1冊目は、そんな情勢の中で魔女術をひっそりと愛好する「魔女」リュシアン―――男である―――とその助手レベッカの日常を描いたほのぼのストーリーだ。リュシアンの使う魔女術は科学技術で再現可能なレベルを超えない、ささやかなものだ。すでに自由自在に魔女術を操る「魔女」の存在はおとぎ話の仲だけのもので、リュシアンはいわば「魔女術オタク」といった趣がある。二人の生きる世界には光が満ちている。

 一方の2冊目は、本物の「魔女」シャルロッテが主人公になっている。シャルロッテは従者レオとともに、散り散りになった魔女の残した「おもちゃ」を片付けている。この「おもちゃ」は、放っておけば際限なく人が死ぬような呪いのアイテムで、近代都市に存在自体を追いやられた魔女たちの「八つ当たり」である。この時点で、かなり1冊目とは雰囲気が違うのは分かるだろう。

 シャルロッテに付き従う男レオは「杖」と呼ばれ、魔女の力を最大限引き出す(あるいは増幅する)役割があるらしい。その代わり、使えば使うほど消耗していく「使い捨て」の存在だ。強力な「おもちゃ」を片付けるためにはテオを使う必要があるが、レオはもうほとんど限界を迎えようとしている。シャルロッテはレオを大切に思うが故、もう「おもちゃ」には関わらず平穏に暮らそうとするが……という風に物語が展開する。

 40ページ程度の長くはない物語で、レオはとうとう倒れ、シャルロッテは彼の前に涙する。これが彼らという数多いた魔女たちの一つの悲劇的結末に過ぎないのだとすれば、魔女とはどこまで悲しい生き物なのだろうか……。

 個人的に、シャルロッテという少女の優しさがとても印象的だった。レオを慈しみ、人々を憐れみ、同胞である魔女たちへの彼女の視線も決して冷ややかではない。ただ、魔女を忘れ去っていく現代社会が、少しずつすり減っていくレオが、彼女を置き去りにしていくだけだ。その孤独に、シャルロッテはちゃんと傷つくことができる。

 ところで、今月単行本が出るらしい。買います。

 

古山フウ『そのほかの話』

 その他、と言われても困る……と言われても困ってしまうのだろうが。

 既刊はなかったと記憶しているが、来年からweb媒体で連載が始まるそうなので、連載以外の、という意味だろうか。とはいえ内容はこれ自体で完結しているので、問題なく読むことができる。

 化けイタチのロク(家族のうち上から六番目だからだ)を主人公に、物の怪の暮らしを淡々と描いたものなのだが、随所にただならぬ雰囲気が漏れ出てくる。ロクは物の怪の中でも「神になることができる」特殊な個体で、無意識のうちに他者を威圧してしまう。ロクと家族たちの、親しく結びついているはずなのにどこか遠く隔絶されているような、緊張感を孕んだ雰囲気はなかなか迫力がある。ある日ロクの前に現れた化けタヌキのまみは、その緊張しながらも調和を保つ空間をどう掻き混ぜ乱すのか、一挙手一投足に注意を払わせられるような独特の存在感をもったキャラクターだ。ほとんどストーリーが動いていないのにこれだけ読ませてくるのは、漫画の地力の高さと言ってよいのではないか。

 ちなみに、同時に売っていた合同誌の方も非常に面白かった。妊娠時に見た悪夢を描いていくという作品で、喉の奥に海苔が張り付いたような不快感を与えてくれた。

 

もくはち『或る魔女の子』

  〃 『イゾラ辺境支局より』

 絵が上手い。人物と自然的背景が調和した、無理のない画面作りだ。個人的に、この「無理のなさ」というのはなかなか得難いものであるように思う。どんなに優れた技巧であっても、それを殊更に誇るようなくどさがあっては「無理のない」画面にはならない(念のために断っておくが、あくまで一般論としてであって特定の作品を念頭に置いているわけではない)。この無理のなさは、体の一部になるほどよく使いこまれた画力の賜物であろう。

 ストーリーは多少の起伏がありつつも毒のない、国語の教科書に載っていてもよさそうな感じだ。というとあまり良い意味に捉えられないかもしれないが、もちろん褒めている。過度に牧歌的でも露悪的でもないことは成熟した精神の証である。

 2冊とも既刊。ページ数が多くて尻込みしてしまったが、他の既刊もまとめて買っておけばよかった。

 

 

 

 

 日付が変わった。とりあえずこの辺りにして、いったん公開してしまおう。

 少し残っているので明日続きを書くことにする。一通り書き終わったら書影などもちゃんとつけて体裁も整えたいな。