一か月ほど前、大学時代の友人と沖縄に行った。
数日かけて本島を一通りめぐり、岬やらダムやら水族館やら慰霊碑やら、いわゆる観光地を見てきた。沖縄は初上陸だったこともあり、断続的なスコールと強烈な日射しで常に湿度が100%に保たれていたこと以外は、おおむねよい思い出になった。メンバーで唯一運転免許を持っていなかったため、運転を人に任せきりにできたのもよかった。(運転してくれた同行者諸氏には深く感謝したい。)
ところで、そこで改めて感じたことがある。旅の本懐は「孤独」にあるということだ。
普段生活を営んでいる場所―――そこでは様々なつながりの糸が複雑にもつれ合っている―――から離れて、ただそこに居合わせただけの人間になること。私にとって、旅はそのような「孤独」を体験する場として大きな意味を持っている。
どうも私は、生活と実存を分けて考える癖がある。……いや、この話はよそう。すぐに実存がどうのこうのと言い出すのはそれこそ私の悪癖である。私の実存は、私の内側においては一大事だが、私以外の人間においては何ら意味を持たない。
とにかく、旅は特別な気持ちに浸れるので好きだという話だ。
さて、今回の漫画は『河畔の街のセリーヌ』。
全3巻で、先の6月に最終巻が出たところだ。私はその直後くらいに読んで感想を書こうと決めたのだが、何やかやで2か月近く経ってしまった。
どうして今まで寝かせておいたのかというと、仕事などが忙しかったということもあるが、私自身、この漫画をどう位置づけようか決めあぐねていたという側面もある。
少なくとも私の好みという観点から言えば、この漫画は決してそれに合致したものではない。私は何事もテーマから考えてしまう方なのだが、この漫画は明確なテーマに基づいて書かれた作品ではない。それは1巻の「あとがき」からも分かる。
当漫画の初期衝動は「印象派が描いたパリ」に対する憧れです。
普通の人々の生活と感情、その舞台となった近代都市空間が絵画の主題となりえた時代。
史実を見返せば決して絵画のように美しいばかりではないけれど、
憧れた世界を、セリーヌと一緒に楽しんでもらえるよう描ければと思います。
あくまで初期衝動の話なので、これがそのまま全体に適用できるわけではないが、本作が「絵画に描かれたようなパリを求める」ところから出発したという事実はそれなりに受け止める必要があろう。
実際に、本作はセリーヌという透徹した眼を通して、パリとそこに住む人々を活写するという点に少なからず力点が置かれているのである。
ついでなので、ここで本作の簡単な内容を紹介しておこう。裏表紙のあらすじなどを参考にしつつ私なりにまとめてみた。
舞台は19世紀フランス、パリ。
『月から来たような』少女、セリーヌ・フランソワは、自分が何をしたいのかもわからない14歳。「多くのことを経験しなさい」という”先生”の教えに従うため、先生教えだけを頼りに上京したパリで、偶然出会った老紳士ルネから”職業を体験する職業”―――パリの様々な職業を体験し彼に報告するという仕事を勧められ、はじめることになる。
大変貌しつつある”都市・パリ”。その中で出会う多様な人々と考え方、そして変わりつつある時代の空気の中で、セリーヌは少しずつ自分がどう生きるかを考えるようになっていく。
ちなみに、「月にいるようだ」というのはフランス語の慣用句で、「夢見がち、ぼうっとしている」という程度の意味らしい。
本作は明確なテーマに基づいて書かれた作品ではない、と先に書いたが、だが私は何事もテーマからしか考えられない人間なので、今回も、無理やりにでもテーマを設定して読み解く手掛かりとしたい。
失われた優しい束縛
さしあたり見出せるテーマの一つは、主人公セリーヌの精神的成長だ。
物語開始当初のセリーヌは、文字通り”先生”から教わったこと以外には何も持っていない状態だ。パリに来たのも「多くのことを経験しなさい」という指示に従っただけで、何の夢も野望ももたず、知り合った人間をたびたび困惑させる。
作中、セリーヌはどんな人やどんな考え方に対しても、否定も肯定もせず、ニュートラルに接する。
この性質がセリーヌにどんな人間とでも関係を築くことを可能にしているのだが、これはセリーヌが先入観のない高潔な人物だからではない。
セリーヌは単に、参照すべき先入観が存在しないだけだ。
何事にも、判断には基準となる材料が要る。自分の経験に基づいて状況の良し悪しを見極めたり、自分が奉ずる価値観に照らして相手の主張を受け入れたり、拒んだりする……そういった誰もがいつの間にか自然に持っているはずのものを、セリーヌはほとんど持ち合わせていない。彼女は人を嫌わないのではなく、嫌うことができないのだ。
実際に、第8話においてセリーヌはオーギュスタンという医師に対して「お医者様だからきっと嫌な人だ」という先入観を持って接するのだ。
オーギュスタン医師に対するセリーヌの偏見は、故郷で出会った悪徳医師に対する印象が強く残っていたためだ。彼女は幼くして両親を亡くしているという身の上、故郷でもあまり人づきあいが多くなかったようだが、出会ったことのある人間に対してはしっかりと先入観を持っていることが分かる。
セリーヌは先入観や予断から解放された人物というよりも、先入観や予断を持つことさえもできていない人物と見た方がよい。
しかし、これはセリーヌが
セリーヌはそれをこれから学んでいく、
物語の開始時点で、セリーヌが持っているのは、”先生”が生前に残した教えだけだ。
セリーヌは物語の中で、様々な人に出会い、様々な考え方に出会い、自分がそれに対しどんな態度をとるのかを選び始める。作中の言葉を借りれば、セリーヌは「自分で考え」始める。
そのための導きとなるのは”先生”の教えのほかにない。セリーヌは”先生”の教えを思い出し、反芻し、そして時に忘れてゆくことに不安を覚えながら、やがて”先生”からの教えと同じくらいに周囲の全ての人から受け取っていることに気付いていく。
物語は、セリーヌが”先生”の手紙を受け取り、その手を離れることで幕を引くことになる。
作中では、成長して「自分で考え」るようになったセリーヌの姿は描かれない。
そこまで描いては野暮だと思ったのか、それとも単に打ち切りのせいなのかは(なお、googleで本作のタイトルを打ち込むと「打ち切り」がサジェストされる。最後の職業体験である「車掌」のエピソードがあまりに消化不良だからだろうか)分からない。
ただ個人的には、セリーヌがどんな生き方を選択するかはまた別のお話として、セリーヌが”先生”の手を離れるようになったこのタイミングを一つの区切りとするのはアリではないかと思う。
余計な一歩を踏み込んで言うならば、むしろ問題は、オビのアオリなどにも使われている「歴史職業探訪記」というコピーの方ではないか。「職業探訪」をメインテーマに据えて見る限り、確かに本作は打ち切りを疑われても仕方がないだろう。
少なくとも私が読んだ感じる限り、セリーヌが種々の職業を体験してまわるという本作の建付けは、ストーリーの都合上採用した枠組み以上の意味はないように思われた。
極論、セリーヌにパリの様々な階層の人々と触れ合わせることができるならば、別の枠組みを採用してもこの漫画の体裁は整うのではないだろうか。これは完全に過ぎた邪推だが、「職業探訪」の形式は分かりやすいキャッチコピーを考えなくてはいけない編集担当あたりの提案で、作者のアイディアではないのではないだろうか。……こんなことを書いて外れていたら慙死ものだが、こんな個人的なブログで本心を韜晦しても仕方がないので、あえて残しておこう。
三重の「語り」
ところで、本作の構成の妙にも触れておきたい。
老紳士ルネは、セリーヌの観察眼を見込んで「いろんな場所に行って見てきたことを報告してほしい」とセリーヌに依頼する。それはルネがこれから書こうとする本の取材のためであった。同時に、作中ではセリーヌが将来的に文筆家として身を立てるようになることも示されている。作家の眼には、ある種の無私性―――起こっている出来事と感じた事・考えたことを分別する性質―――がなければならないが、セリーヌにはその素質があった。
ここにおいて、「ルネがセリーヌの目を通して書こうとしている本」と「セリーヌが将来書くことになる本」、そして「セリーヌを主人公とするこの漫画」が重なり合うのである。
19世紀パリを描くという、ともすれば退屈な日常雑記にもなりかねない題材にダイナミズムを与えているのは、この語りの重層性の負うところも少なくないであろう。
初めにも書いた通り、本作はいわゆる私の守備範囲の外縁にある漫画で、感想をまとめるのにもなかなか苦労してしまった。
本当はさっさと諦めて次の漫画に移ろうとも思ったのだが、書き出した手前投げ出すのもきまりが悪い。それに、このブログを書くようになって「漫画をちゃんと読むきっかけになる」という長所があると感じてもいたので、折角の機会だと思ってなんとか書いた。
だが、結果的にいつも以上にひどいものになったなという印象はある。果たして私以外の人間が読んでも何を言っているか理解できるのだろうか? まあ理解できなくても構わないのだが。
次は、もっと簡単で感想を書きやすい漫画にしよう。