鯨庭『言葉の獣 2』

 最近、といっても年明けから1か月ほどだが、マッチングアプリを使っていた。

 私は自他ともに認める「無縁な」人間で、共学高校(男女比が厳密に1:1であり、なんと隣同士の男女が机をくっつけて授業を受けていた!)で3年間を過ごしながら、異性生徒の顔と名前を一人も覚えていないほどだ。念のため断っておくと、同性なら顔くらいは分かる。

 このような私だが、結婚願望だけはある。というより、「結婚して子供をもってはじめて一人前」という前時代的価値観に似たものをもっている。人口の再生産を担わずにいることは社会のフリーライダーであることを意味するからだ。

 しかし私の性質を考えれば、このままのらりくらりとしていたら何もせずにお手遅れになってお終いになるのが目に見えている。年齢的にもそろそろ焦って妥協し始める人も増える頃合いだろうし、これを機にいっちょ取り組んでみよう、と思い立ったのが今年の初め。その結果うまくいかなければ言い訳になるし、もちろんうまくいけばそれでいい。

 そうしてマッチングアプリに登録し、ネットに書いてあるノウハウに従っていいねを送ったりメッセージをやり取りしたりしていたのだが、1か月を迎えたところで無事モチベーションが尽きたというわけだ。

 

 成果としては失敗というほかないが、予想外に得るものはあった。いや、学びがあった。

 それは、真に困難なのは愛されることではなく愛することだ、ということである。

 ぶっちゃけ、私は私にしか興味がない。したがって当然に、まず相手が私に興味を示してくれなければ私も興味をもつことができない。アプリ画面には興味ない人間の顔写真とプロフィールが並んでいて、さながら知らない料理名しかないメニュー表のようなものだ。この中から選べと言われても……ねぇ?

 だがやると決めたからにはやるしかない。「しょ~もね~」と思いながら、時には実際にそう呟きながら、さらに時にはあまりのしょうもなさに頭痛さえ感じながら、「興味がある」のハードルを限界まで下げて興味をもてそうな人を探す。

 そうやって何とか興味がある振りをしていいねやメッセージを送ると、意外にもそれなりにマッチングしたのである。たかがマッチングしただけで何を大げさなと思われるかもしれないが、これまで異性に興味を示される経験がゼロであった身としては、そもそも自分が「対象」に入るということ自体が純粋な驚きであった。

 正直に言えば、当初に想定した「最もありえそうなシナリオ」は「手を出してみたはいいものの誰ともマッチングせずに終わる」だった。そのため、実際にやり取りをする心の準備まではしておらず、「頼むから返信は来ないでくれ……!」と願いながらメッセージを打つ羽目になった。(幸い(?)結局やり取りは長続きせず、実際に会うことなどもなかった。)

 とはいえ、こちらが(少なくとも見かけ上)真剣に興味がある態度を示せば、向こうからも悪しからぬ反応が返ってくることは大きな学びであった。これまで私に浮いた話がなかったのは単に私に恋愛市場的な価値がないからだと思っていたが(別にそれ自体は間違っていないだろうが)、私が人を愛してこなかったからかもしれない。*1

 

 もしここまで読んでいる忍耐強い読者がいれば、なんとガキくさい話をしているのかと呆れ果てているころだろう。この程度の恋愛観は中高生のうちに身につけておくべきだ、今さらそんな仰々しく語るようなことではない、まことにごもっとも。

 周回遅れの学びではあろうが、恐らくこのような機会がなければ私は一生知らないままでいたに違いない。そういう意味で、非常に神経はすり減ったが有意義な経験だった。もう二度とやらないと思う。

 

 

 

 

 余談が長くなった。今回の漫画は鯨庭先生の『言葉の獣』。

 

鯨庭『言葉の獣 2』リイド社、2023年
カバーを外すと岩波文庫っぽいデザインになっている

 

 本作はトーチwebで連載中の漫画で、私の持っている1巻が発売後9か月で第3刷なので、そこそこ人気があるようだ。

 

 「言葉の獣」を見るという異能をもつ少女・東雲と、詩に情熱を注ぐ文学少女・薬研。この二人が「言葉の獣」が住む「生息地」でさまざまな「言葉の獣」を探し、その在りようを見つめていく。

 ……というのが、本編のあらすじなのだが、いくつかの用語には説明が必要だろう。

 表題にもなっている「言葉の獣」は、文字通り、言葉が獣の形をとったものだ。東雲にのみ見ることができ、彼女曰く「生まれつきの共感覚ってやつ」らしい。姿は実在する動物であったりそうでなかったりするが、おおむね哺乳類から爬虫類までの範疇に収まっている。東雲は目にした「獣」の姿をスケッチブックに描きとめており、「この世で一番美しい言葉の獣」を見つけることを目標にしている。

 東雲には「獣」が日常生活の中で見えているが、薬研はそのスケッチを通してしか見ることができない。だが、「生息地」と呼ばれる鬱蒼とした森のような場所の中では、薬研にも直接見ることができるようになる(代わりに、薬研は虎の姿になってしまう)。「生息地」は「獣」たちの住む別世界で、東雲をはじめとした特別な適性をもった人間だけが入ることができる、日常空間と隔絶された(しかし地続きな)空間だ。

 物語は専ら、この「生息地」で出会う「言葉の獣」たちと向き合い考えながら進行することになる。

 

 さて、あらすじを紹介したところで、本作のメインテーマの設定に移ろう。

 と言いたいところだが、私が思うに、この漫画には私が言うような意味でのテーマは存在しない。本作は普通のストーリー仕立ての体裁をなしつつ、実態としてはむしろエッセイに近いものではないかと思われる。

 

 先ほど本作に特有の概念を整理してみたが、それらはしばしば輪郭があいまいだ。

 たとえば、本作の最序盤には次のような東雲の台詞がある。

 

 言葉ってなんだと思う?

 

 例えばさ、みんなが「かゆい」と呼んでいる感覚が、自分には「くすぐったい」かもしれないって考えたことはないかい?

 

 私はそういう『疑問』を感じたことがないんだ

 私にはずっと言葉の形が見えてたからね

 

 人は気持ちをより正しく伝えるために言葉を使う

 でもそれは

 

 無意識のうちに刷り込まれてきた言葉に、意味を押し込めているだけに過ぎないんだよ

 私は言葉で示そうとした気持ちそのものがわかるんだ

 他者の気持ちは絶対にわからない

 私はわかるけどね

 

 言語哲学心の哲学に近い話をしているようにも見えるが、これをそういった文脈で検討するには私はあまりに勉強が足りていない。

 ここで着目したいのは、東雲は「言葉で示そうとした気持ちそのものがわかる」と言っていることだ。

 

 発された言葉とその発話に込められた気持ちは必ずしも一致しない、という前提に立てば、東雲に見えているのは言葉ではなく本心、つまり「かゆい」という言葉ではなく、「かゆい」と感じる心だ。これを素直に解釈するならば、これは「言葉の獣」ではなく「心の獣」と呼称すべきではないのか。

 

 その例として、作中で最初にクローズアップされる「獣」を見てみよう。

 問題の「獣」は、薬研が詩に対して不真面目なクラスメイト達に憤り、その気持ちを国語教師にぶつけた時に言われた「頑張れ」という言葉の「獣」である。

 これだ。

色んな「タイプ」があるらしい

 

 そしてこちらが、辞書的な意味での「頑張れの獣」である。

手前の虎が薬研である。

 

 両者が全く別物であることは明らかだ。

 

 これらの「獣」の姿や振る舞いを観察することで、東雲たちは「獣」の本質を見極めていく。

 たとえば、辞書的な意味での「頑張れの獣」は、長い首で対象者を見守りながら、慰めや励ましのために抱きしめたりする。一方で、薬研にとっての「頑張れの獣」は、遠巻きに眺めるだけで何もしてくれない。薬研にとっての「頑張れ」とは、傍に寄り添い励ましてくれる言葉というよりも、「私には助けてあげられない」という冷酷な突き放しであった。

 

 だとすれば、薬研にとっての「頑張れの獣」はもはや「頑張れの獣」ではなく、「助けられないの獣」と呼ぶべきではないか。

 姿も性質も異なる、モチーフとなったであろう動物さえ異なる二つの獣を、同じ「言葉」のもとに名付けなければいけない理由はどこにあるのだろうか?

 

 これは別に解決困難な問いというわけではない。

 たとえば、言葉には音と意味という2つの要素があるが、これが辞書的定義に従って一対一で対応すると考える必要はない。実のところ、「かゆい」という言葉を「痛い」という意味で使っても、「気持ちいい」という意味で使っても構わないのだ。重要なのは、ある特定の状況下でそれが何を意味するか、どう理解されるかだ。

 現に、そういう風に解釈できないこともないセリフもある。

君は 面白い言葉の見方をする

言葉には意味そのものは含まれていないことがよく分かってる

 これは前述の「頑張れの獣」のエピソードがひと段落着いたところで東雲が発したセリフだ。言葉はそれ単体で意味をもつものではなく、脈絡と文意によってはじめて意味をなす、という意味だろうか。

 

 今、私は試しに一つの回答の可能性を示してみたが、当然ながらこれが唯一の解決というわけではない。

 第一、文脈原理に則るならばそもそも「頑張れの獣」などと文脈から単語を切り出してくること自体が問題含みであろう。また、ここで全てを取り上げるようなことはしないが、本作にはこの論理では説明できないエピソードが次々に登場する。

 

 さて、では本作ではこの問題にどのような回答が用意されているのだろうか。

 私の読むところでは、本作にはその回答が用意されていない。むしろ、本作は「言葉の獣」という表象を通して、「言葉」の形式と意義について考えていくものであるようにさえ思われるのだ。

 

 本作の中で、東雲と薬研の目的は一ではない。

 東雲の目的は、「この世で一番美しい言葉の獣」を見つけること。ここでも「美しい言葉の獣」と「美しいの獣」は何がどう違うのかという問題が生じるが、それはいったん棚上げしよう。東雲はかつて谷川俊太郎の「生きる」を読んだときに見た美しい「獣」のことを忘れられず、美しい「言葉の獣」を探している。

 一方、薬研の目的は、「言葉の獣や生息地が一体何なのか」知ることだ。これは今回私が問題提起した部分に重なってくるだろう。しかし薬研は好奇心とある種の興奮に突き動かされている節があり、この目的はあくまでも最終目標として捉えられているようだ。

 

 では、このような二人の登場人物が織りなしていくストーリーは、いったいどこを目的地としているのだろう。ここからは私の勝手な推測の割合が増してくるが、本作はそれを用意できていないのではないだろうか。問いも、したがって当然答えも、まだどこにもない。

 というのは、どうにも答えに近づいている感触がないというか、雲をつかむような話が続いているように感じるからだ。もしあらかじめ辿り着くべき答えが用意されているのならば、伏線を張るなり、説得力をもたせるために段階的に理路を筋立てていくような工夫があってしかるべきだろう。

 

 だが本作では、そういった志向性が希薄である。

 2巻の後半では、「記録媒体としての言葉」という側面から、東雲と薬研の「記憶(されること)」の意味について、そして薬研の感じる「忘却=死への恐怖」へと主題が移っていく。これ自体は私にとってはそれなりに興味のあるテーマだが、「言葉の獣とは何か」という(薬研の)目的からはかなり遠ざかっている感が否めないだろう。*2

 

 私が冒頭で「むしろエッセイに近い」と書いたのはこういう意味だ。

 本作は明確なテーマが設定され、その回答へ向けて意識的に構成されたものではなく、「言葉の獣」というモチーフのもとである意味自由に、まとまらないままの考えを広げるようなものとして描かれているように思われる。東雲が求める「言葉の美しさ」、あるいは薬研の追及する「言葉とは何か」という問いは、そのなかに建てられた一つのランドマークに過ぎない。

 

 個人的には「今何が問題になっているか」がはっきりしている方が好みなので、こういうタイプの漫画は読むのに(そして感想を書くのに)体力を必要とする。

 しかし、しばしば結末ではなくそこに至る道のりの方が重要であるように、自分の思考する過程を描くという行為には、結論から逆算された語りとは違った意味があるだろう。

 

 

 最近常々思うことだが、世の中には大量の漫画が溢れていて、自分が読む漫画には内容以前の「好みっぽいかどうか」というふるいがかけられている。このふるいの目は想像以上に粗く、私が意識にもあげずにふるい落としているものは私が思うよりはるかに膨大であるに違いない。

 それは悪いことではなく、有限の時間と処理能力のなかを生きる我々にとって必要不可欠であるにせよ、それで自分にとって読むべき漫画が見逃してしまうとすれば悲しいことに違いない。

 

 

 

 久しぶりに感想を書いたので何だか締め方が分からなくなってしまった。未完の漫画なので感想も尻切れ蜻蛉で許される、ということにならないだろうか。

 

*1:したがって、もし私が真剣に恋人を探すのであればまず人を愛する努力をするところから始めるべきなのだが、これは私の長年の内省によって不可能であることが分かっている。

*2:断っておくと、本稿を書いている時点ではまだ2巻までしか読んでいないので、この一連のエピソードがどう着地してどうつながっていくのかは分からない。

COMITIA146 戦利品雑多感想

 コミティア146に行った。

 いつも通り漫画の島はを全サークル回るつもりでいたのだが、青年漫画の島を一舐めしたところで友人と合流したので全部というわけにはいかなかった。

 というのも、携帯の電池が切れそうだったので時間を指定して合流せざるを得なかったのだ。そもそもその友人との朝の待ち合わせには遅刻していて、待機列に並んでいる間の話し相手という第一の目的は既に破綻していた。折角誘ってくれたにも関わらず不甲斐ない失態に申し訳ない気持ちでいっぱいだ(彼には帰りに牛カツを奢った)。

 

 そういう失態がありつつも、コミティア自体は非常に実りあるものだった。

 というわけで今回は、現地で買った漫画の感想を書いていこうと思う。

 いつもはできるだけ読み込み、作者の来歴なども多少は調べたうえで書くことにしているのだが、ただでさえ筆が遅いのにそんなことをしていると永遠に書き終わらない。 今回紹介する作者の中にはネットで漫画を公開している人などもいて、本当はそれらもちゃんと目を通してから書くべきだということは承知の上で、今回ばかりはご容赦願いたい。(もしエゴサしてる人がいたら観測しているうちに書き上げたいという気持ちもある。)

 

 

米田タロウ『カボチャ頭と迷子娘』

 ハロウィンを舞台に、悪魔に魂を売って生きながらえる亡霊ウィルと、亡霊の街に迷い込んだ少女アンナの話。

 60ページ程度の小品ながらキャラクターの立ち具合やバックグラウンドの描写は決して物足りなさはない。強いて言えば、「ろくでなし」と言われているウィルがただの口の悪い善人にしか見えないところくらいか。読切として書いたと書かれているが、どこかに掲載されたりしたのだろうか。それくらい調べてからから書けという話だが。

 

清水幸詩郎『スライムだけど愛してる。』

  〃  『タコで、ごめんね。』

 1冊目は既刊で、黒いスライムの「泥沼君」と、彼と付き合っているなゆた君の淡い青春物語……なのか? スライムである泥沼君の異物感と、それと対照的な人間らしい心の交流、なゆた君の悲惨きわまる生活環境、そこから絞り出される「人間なんて大嫌い」というモノローグ。はっきりと迫ってくるものがありながら、こちらに何も訴えかけてこない不気味さがある。

 2冊目は新刊。身体が魚介類に変身していってしまう「先祖返り」現象が一般化した世界を舞台に、タコになってしまう主人公と先祖返り現象に興味津々な友人の物語。意に反してタコへと変化していく不穏さと、互いに救い合うような二人の関係性の眩しさが対照的だ。今回買ったこの作者の本はこの2冊だが、明るさと暗さの対比の仕方や世界観の提示の仕方はかなり好みだ。絵柄の味もいい。

 

路地裏兎『魔女の助手レベッカの日常』

 〃  『魔女シャルロッテの後片付け』

 世界観を共有している2冊。科学技術の発展する現代を舞台に、「魔女」―――この呼称は「魔女術を使う者」という意味であって生物学的性別は問わないらしい―――がひっそりと生きる様を描く作品。絵が上手い。

 この作品群で言うところの「魔女術」は薬草学の延長上にあるようで、自然由来の材料に依存している。そのため都市化に伴い、ほとんど魔女の命脈は途絶えようとしている、という舞台設定だ。

 1冊目は、そんな情勢の中で魔女術をひっそりと愛好する「魔女」リュシアン―――男である―――とその助手レベッカの日常を描いたほのぼのストーリーだ。リュシアンの使う魔女術は科学技術で再現可能なレベルを超えない、ささやかなものだ。すでに自由自在に魔女術を操る「魔女」の存在はおとぎ話の仲だけのもので、リュシアンはいわば「魔女術オタク」といった趣がある。二人の生きる世界には光が満ちている。

 一方の2冊目は、本物の「魔女」シャルロッテが主人公になっている。シャルロッテは従者レオとともに、散り散りになった魔女の残した「おもちゃ」を片付けている。この「おもちゃ」は、放っておけば際限なく人が死ぬような呪いのアイテムで、近代都市に存在自体を追いやられた魔女たちの「八つ当たり」である。この時点で、かなり1冊目とは雰囲気が違うのは分かるだろう。

 シャルロッテに付き従う男レオは「杖」と呼ばれ、魔女の力を最大限引き出す(あるいは増幅する)役割があるらしい。その代わり、使えば使うほど消耗していく「使い捨て」の存在だ。強力な「おもちゃ」を片付けるためにはテオを使う必要があるが、レオはもうほとんど限界を迎えようとしている。シャルロッテはレオを大切に思うが故、もう「おもちゃ」には関わらず平穏に暮らそうとするが……という風に物語が展開する。

 40ページ程度の長くはない物語で、レオはとうとう倒れ、シャルロッテは彼の前に涙する。これが彼らという数多いた魔女たちの一つの悲劇的結末に過ぎないのだとすれば、魔女とはどこまで悲しい生き物なのだろうか……。

 個人的に、シャルロッテという少女の優しさがとても印象的だった。レオを慈しみ、人々を憐れみ、同胞である魔女たちへの彼女の視線も決して冷ややかではない。ただ、魔女を忘れ去っていく現代社会が、少しずつすり減っていくレオが、彼女を置き去りにしていくだけだ。その孤独に、シャルロッテはちゃんと傷つくことができる。

 ところで、今月単行本が出るらしい。買います。

 

古山フウ『そのほかの話』

 その他、と言われても困る……と言われても困ってしまうのだろうが。

 既刊はなかったと記憶しているが、来年からweb媒体で連載が始まるそうなので、連載以外の、という意味だろうか。とはいえ内容はこれ自体で完結しているので、問題なく読むことができる。

 化けイタチのロク(家族のうち上から六番目だからだ)を主人公に、物の怪の暮らしを淡々と描いたものなのだが、随所にただならぬ雰囲気が漏れ出てくる。ロクは物の怪の中でも「神になることができる」特殊な個体で、無意識のうちに他者を威圧してしまう。ロクと家族たちの、親しく結びついているはずなのにどこか遠く隔絶されているような、緊張感を孕んだ雰囲気はなかなか迫力がある。ある日ロクの前に現れた化けタヌキのまみは、その緊張しながらも調和を保つ空間をどう掻き混ぜ乱すのか、一挙手一投足に注意を払わせられるような独特の存在感をもったキャラクターだ。ほとんどストーリーが動いていないのにこれだけ読ませてくるのは、漫画の地力の高さと言ってよいのではないか。

 ちなみに、同時に売っていた合同誌の方も非常に面白かった。妊娠時に見た悪夢を描いていくという作品で、喉の奥に海苔が張り付いたような不快感を与えてくれた。

 

もくはち『或る魔女の子』

  〃 『イゾラ辺境支局より』

 絵が上手い。人物と自然的背景が調和した、無理のない画面作りだ。個人的に、この「無理のなさ」というのはなかなか得難いものであるように思う。どんなに優れた技巧であっても、それを殊更に誇るようなくどさがあっては「無理のない」画面にはならない(念のために断っておくが、あくまで一般論としてであって特定の作品を念頭に置いているわけではない)。この無理のなさは、体の一部になるほどよく使いこまれた画力の賜物であろう。

 ストーリーは多少の起伏がありつつも毒のない、国語の教科書に載っていてもよさそうな感じだ。というとあまり良い意味に捉えられないかもしれないが、もちろん褒めている。過度に牧歌的でも露悪的でもないことは成熟した精神の証である。

 2冊とも既刊。ページ数が多くて尻込みしてしまったが、他の既刊もまとめて買っておけばよかった。

 

 

 

 

 日付が変わった。とりあえずこの辺りにして、いったん公開してしまおう。

 少し残っているので明日続きを書くことにする。一通り書き終わったら書影などもちゃんとつけて体裁も整えたいな。

日之下あかめ『河畔の街のセリーヌ』

 一か月ほど前、大学時代の友人と沖縄に行った。

 数日かけて本島を一通りめぐり、岬やらダムやら水族館やら慰霊碑やら、いわゆる観光地を見てきた。沖縄は初上陸だったこともあり、断続的なスコールと強烈な日射しで常に湿度が100%に保たれていたこと以外は、おおむねよい思い出になった。メンバーで唯一運転免許を持っていなかったため、運転を人に任せきりにできたのもよかった。(運転してくれた同行者諸氏には深く感謝したい。)

 

 ところで、そこで改めて感じたことがある。旅の本懐は「孤独」にあるということだ。

 普段生活を営んでいる場所―――そこでは様々なつながりの糸が複雑にもつれ合っている―――から離れて、ただそこに居合わせただけの人間になること。私にとって、旅はそのような「孤独」を体験する場として大きな意味を持っている。

 

 どうも私は、生活と実存を分けて考える癖がある。……いや、この話はよそう。すぐに実存がどうのこうのと言い出すのはそれこそ私の悪癖である。私の実存は、私の内側においては一大事だが、私以外の人間においては何ら意味を持たない。

 とにかく、旅は特別な気持ちに浸れるので好きだという話だ。

 

 さて、今回の漫画は『河畔の街のセリーヌ』。

 

日之下あかめ『河畔の街のセリーヌ 3』2023年、マッグガーデン
行きつけの書店では目立つ位置に全巻面陳されていた。

 

 全3巻で、先の6月に最終巻が出たところだ。私はその直後くらいに読んで感想を書こうと決めたのだが、何やかやで2か月近く経ってしまった。

 

 どうして今まで寝かせておいたのかというと、仕事などが忙しかったということもあるが、私自身、この漫画をどう位置づけようか決めあぐねていたという側面もある。

 少なくとも私の好みという観点から言えば、この漫画は決してそれに合致したものではない。私は何事もテーマから考えてしまう方なのだが、この漫画は明確なテーマに基づいて書かれた作品ではない。それは1巻の「あとがき」からも分かる。

 

当漫画の初期衝動は「印象派が描いたパリ」に対する憧れです。

普通の人々の生活と感情、その舞台となった近代都市空間が絵画の主題となりえた時代。

史実を見返せば決して絵画のように美しいばかりではないけれど、

憧れた世界を、セリーヌと一緒に楽しんでもらえるよう描ければと思います。

 

 あくまで初期衝動の話なので、これがそのまま全体に適用できるわけではないが、本作が「絵画に描かれたようなパリを求める」ところから出発したという事実はそれなりに受け止める必要があろう。

 実際に、本作はセリーヌという透徹した眼を通して、パリとそこに住む人々を活写するという点に少なからず力点が置かれているのである。

 

 ついでなので、ここで本作の簡単な内容を紹介しておこう。裏表紙のあらすじなどを参考にしつつ私なりにまとめてみた。

 

 舞台は19世紀フランス、パリ。

 『月から来たような』少女、セリーヌ・フランソワは、自分が何をしたいのかもわからない14歳。「多くのことを経験しなさい」という”先生”の教えに従うため、先生教えだけを頼りに上京したパリで、偶然出会った老紳士ルネから”職業を体験する職業”―――パリの様々な職業を体験し彼に報告するという仕事を勧められ、はじめることになる。

 大変貌しつつある”都市・パリ”。その中で出会う多様な人々と考え方、そして変わりつつある時代の空気の中で、セリーヌは少しずつ自分がどう生きるかを考えるようになっていく。

 

 ちなみに、「月にいるようだ」というのはフランス語の慣用句で、「夢見がち、ぼうっとしている」という程度の意味らしい。

 

 本作は明確なテーマに基づいて書かれた作品ではない、と先に書いたが、だが私は何事もテーマからしか考えられない人間なので、今回も、無理やりにでもテーマを設定して読み解く手掛かりとしたい。

 

失われた優しい束縛

 さしあたり見出せるテーマの一つは、主人公セリーヌの精神的成長だ。

 物語開始当初のセリーヌは、文字通り”先生”から教わったこと以外には何も持っていない状態だ。パリに来たのも「多くのことを経験しなさい」という指示に従っただけで、何の夢も野望ももたず、知り合った人間をたびたび困惑させる。

 

 作中、セリーヌはどんな人やどんな考え方に対しても、否定も肯定もせず、ニュートラルに接する。

 この性質がセリーヌにどんな人間とでも関係を築くことを可能にしているのだが、これはセリーヌが先入観のない高潔な人物だからではない。

 セリーヌは単に、参照すべき先入観が存在しないだけだ。

 何事にも、判断には基準となる材料が要る。自分の経験に基づいて状況の良し悪しを見極めたり、自分が奉ずる価値観に照らして相手の主張を受け入れたり、拒んだりする……そういった誰もがいつの間にか自然に持っているはずのものを、セリーヌはほとんど持ち合わせていない。彼女は人を嫌わないのではなく、嫌うことができないのだ。

 

 実際に、第8話においてセリーヌはオーギュスタンという医師に対して「お医者様だからきっと嫌な人だ」という先入観を持って接するのだ。

 オーギュスタン医師に対するセリーヌの偏見は、故郷で出会った悪徳医師に対する印象が強く残っていたためだ。彼女は幼くして両親を亡くしているという身の上、故郷でもあまり人づきあいが多くなかったようだが、出会ったことのある人間に対してはしっかりと先入観を持っていることが分かる。

 セリーヌは先入観や予断から解放された人物というよりも、先入観や予断を持つことさえもできていない人物と見た方がよい。

 

 しかし、これはセリーヌ欠落した・・・・人間として描かれているという意味ではない。

 セリーヌはそれをこれから学んでいく、途上にある・・・・・人物なのだ。この物語の一つの焦点がそこにある。

 

 物語の開始時点で、セリーヌが持っているのは、”先生”が生前に残した教えだけだ。

 セリーヌは物語の中で、様々な人に出会い、様々な考え方に出会い、自分がそれに対しどんな態度をとるのかを選び始める。作中の言葉を借りれば、セリーヌは「自分で考え」始める。

 そのための導きとなるのは”先生”の教えのほかにない。セリーヌは”先生”の教えを思い出し、反芻し、そして時に忘れてゆくことに不安を覚えながら、やがて”先生”からの教えと同じくらいに周囲の全ての人から受け取っていることに気付いていく。

 物語は、セリーヌが”先生”の手紙を受け取り、その手を離れることで幕を引くことになる。

 

 作中では、成長して「自分で考え」るようになったセリーヌの姿は描かれない。

 そこまで描いては野暮だと思ったのか、それとも単に打ち切りのせいなのかは(なお、googleで本作のタイトルを打ち込むと「打ち切り」がサジェストされる。最後の職業体験である「車掌」のエピソードがあまりに消化不良だからだろうか)分からない。

 ただ個人的には、セリーヌがどんな生き方を選択するかはまた別のお話として、セリーヌが”先生”の手を離れるようになったこのタイミングを一つの区切りとするのはアリではないかと思う。

 

 余計な一歩を踏み込んで言うならば、むしろ問題は、オビのアオリなどにも使われている「歴史職業探訪記」というコピーの方ではないか。「職業探訪」をメインテーマに据えて見る限り、確かに本作は打ち切りを疑われても仕方がないだろう。

 少なくとも私が読んだ感じる限り、セリーヌが種々の職業を体験してまわるという本作の建付けは、ストーリーの都合上採用した枠組み以上の意味はないように思われた。

 極論、セリーヌにパリの様々な階層の人々と触れ合わせることができるならば、別の枠組みを採用してもこの漫画の体裁は整うのではないだろうか。これは完全に過ぎた邪推だが、「職業探訪」の形式は分かりやすいキャッチコピーを考えなくてはいけない編集担当あたりの提案で、作者のアイディアではないのではないだろうか。……こんなことを書いて外れていたら慙死ものだが、こんな個人的なブログで本心を韜晦しても仕方がないので、あえて残しておこう。

 

三重の「語り」

 ところで、本作の構成の妙にも触れておきたい。
 
 老紳士ルネは、セリーヌの観察眼を見込んで「いろんな場所に行って見てきたことを報告してほしい」とセリーヌに依頼する。それはルネがこれから書こうとする本の取材のためであった。同時に、作中ではセリーヌが将来的に文筆家として身を立てるようになることも示されている。作家の眼には、ある種の無私性―――起こっている出来事と感じた事・考えたことを分別する性質―――がなければならないが、セリーヌにはその素質があった。

 ここにおいて、「ルネがセリーヌの目を通して書こうとしている本」と「セリーヌが将来書くことになる本」、そして「セリーヌを主人公とするこの漫画」が重なり合うのである。
 19世紀パリを描くという、ともすれば退屈な日常雑記にもなりかねない題材にダイナミズムを与えているのは、この語りの重層性の負うところも少なくないであろう。



 初めにも書いた通り、本作はいわゆる私の守備範囲の外縁にある漫画で、感想をまとめるのにもなかなか苦労してしまった。

 本当はさっさと諦めて次の漫画に移ろうとも思ったのだが、書き出した手前投げ出すのもきまりが悪い。それに、このブログを書くようになって「漫画をちゃんと読むきっかけになる」という長所があると感じてもいたので、折角の機会だと思ってなんとか書いた。

 だが、結果的にいつも以上にひどいものになったなという印象はある。果たして私以外の人間が読んでも何を言っているか理解できるのだろうか? まあ理解できなくても構わないのだが。

 

 次は、もっと簡単で感想を書きやすい漫画にしよう。

町田洋『砂の都』

 『ムーランルージュ』という舞台を観てきた。帝劇で観劇したのは初めてだったので、なかなか新鮮な体験だった。

 特にカーテンコールがとてもよかった。野郎どものラインダンスは楽しくていい。

 

 

 さて、今回の漫画は町田洋先生の「砂の都」。

 

町田洋「砂の都」2023年、講談社

 

 作者の町田洋先生は、もともと個人サイト出身の作家だ。

 2013年に全編描き下ろしで『惑星9の休日』を刊行して商業デビューし、続けて2014年に個人サイト時代の作品を含めた初期作品集『夜とコンクリート』を世に出した。その後モーニングツーで連載を開始したものの、数年間休載するなど活動は不定期だった。

 今作『砂の都』は、ファン待望の新刊ということになる。

 

 私は、数年前に『惑星9の休日』を読んだきり、熱心に動向を追っていたというわけではない(3年前にトーチwebで短編を書いていたことも、今回改めて調べて初めて知った)。

 だが、やはり今回の作品を読んでみて思うのは、町田洋は私の「好きな作家」の一人に数えうるということだ。

 

あらすじ

 今作は、形式としては短編集の趣ではあるが、全編がある一つの大きなストーリーを構成している。おおまかなストーリーは次のようなものだ。

 

 主人公は、砂漠の中を移動する「丘」の上にある町に住んでいる。

 この町には「人の記憶を建てる」という特殊な現象が起こる。町に住む人々の記憶や思い出から、建物が勝手に再現されて建ち、そうして建った建物は、人が住まなくなってしばらくすると自然に崩れるようになっていた。

 主人公はこの町で、カメラ修理店のバイトをしたり、顔なじみの友人や町に住む愛想のない少女と交流したりして、平凡な日常を過ごしていた。

 いつまでもこんな日々が続くと思っていた日常は、少しずつ綻んでいく。

 建物が崩壊するペースが速まり、逆に新しく建つ頻度が減っていった。やがて崩れないはずの人が住む家が崩れる事件まで起こり、主人公は建築の勉強をするために町を出ることを決意する。

 8年後、「町」に戻って来た主人公が見たのは、建物がすべてなくなり更地になった「丘」だった。砂漠をさまよう「丘」は海へと進路を取り、海に飲まれて消える日に立ち会おうとかつての住人たちが集まってきていた。

 「丘」がとうとう海に崩れ落ちようとするとき、「丘」は最後の輝きのように、今まで建ててきた建物の姿を現す。主人公は、かつてこの町で時間を過ごし、かつて伝えられないままだった少女への想いを伝えるために走り出す……。

 

 砂漠の中を移動する「丘」と、人の記憶を建てる「町」。これらが何なのかは結局明らかにならないが、町田洋はこういう「すこしふしぎ」を描くのが上手い。描きたいテーマのための舞台を設定するのが巧みだと言うべきか。

 

 少し遠回りにはなるが、私が町田洋に見出しているある特徴について整理したい。

 それが、「今を見つめる視点」だ。

 

 時間を遡り、過去の作品群に目を向けよう。

 『夜とコンクリート』所収の「発泡酒」には、次のような台詞がある。

 

友人のあの言葉はあの時代の友人の真実だった

俺のあの気持ちはあの時代のおれの真実だった

 

 この短編は非常に短く、たった8ページしかない。描かれている主題も明確なので、ほとんど誤読の可能性がないという意味で、このテーマを強調するのにふさわしいだろう。

 19歳の時、大学の友人が深夜の公園で言い放った「音楽を作ることは俺のすべてだ」という言葉に感動した「俺」は、久しぶりの同窓会で再会した友人に今も音楽をしているかと聞く。友人は「そんなこともやってたな」と言い、「俺」は密かに悲しみを感じるが、それでも、と上に引用した台詞が導かれる。

 

 結果的に裏切られてしまった言葉を、その裏切りに傷つきながらも、なお「あの時代の真実」であったと認める態度。

 ここには通時的な視点を排し、その瞬間だけを捉えようとする視線がある。

 

 また、同じく『夜とコンクリート』所収の「青いサイダー」にも同様の視線を見出せる。こちらは先ほどよりも長めのエピソードなので、寄り道が長くなってしまうが、あらすじから紹介したい。

 

 主人公は、「シマさん」という無人島の姿をしたイマジナリーフレンドをもつ少年だ(作中からは性別は分からないのだが、「主人公」という呼称を何度も使い回すと混乱を招く可能性があるので、少年と呼ぶことにする)。

 少年は内向的な性格で、シングルマザーである母親は仕事に忙しくなかなか少年と向き合う時間が取れていない。一方で、シマさんも次第に返事が返ってくる頻度が少なくなり、少年は孤独感を募らせていた。

 そんなある日、少年はマンションの屋上で何処かを見つめている男に出会う。彼は屋上で物思いにふける姿が瞑想する仙人のようだということで「センニン」と呼ばれ、次第に少年と心を通わせていくことになる。

 実は、このセンニンは自分の思い描いたイメージを他人に見せることができる特殊能力をもっていて、シマさんは彼が少年に見せていた幻であった。シマさんの出現頻度が落ちているのは、センニンが病によって寿命を迎えようとしているからだった。

 命が尽きようとする間際、センニンは少年に真実を告げ、少年は「あなたとあの島ですごせて幸せだった」と答える。

 

 物語の中では、「大人になる」ということがたびたび言及される。

 シマさんは少年に「君が"大人"になるまではそばにいよう」と言い、少年はそれに対して「シマさんといられるなら別に大きくなんてなりたくないんだ」と言う。

 

 さらに、少年はこうも言う。

 

大人って何でもできるね

校区の外のどこへでも一人で出かけられたり、決まった給食じゃないものが食べられたり、

僕が真剣に考えていることを、見もせずに投げ捨てたりできるんだ

 

 これは、今まで自分の胸の内にしまっていたシマさんのことが母親に知られてしまった時のことを受けた台詞だ。母親はシマさんのことを単なる空想と断じ、一顧だにしなかった。

 とはいえ、母親が特別冷淡な人間というわけではないだろう。「無人島の姿をした形而上の話し相手」なる存在を受け入れることは、まともな社会生活を送っている大人には容易ではない。

 そして子供自身にとっても、幼い時分に抱いた心の友と寄り添い続けることは難しい。イマジナリーフレンドは大抵の場合児童期のうちに自然に消滅するもので、魔法が解けてしまった後には文字通りただの空想になってしまうはずのものだ。

 

 だが、ここではまさに、そういった未来を見通したような視線こそが批判されているのだ。

 大人の目線から見ればやがて打ち捨てられてしまうだろうものが、子どもの目線からは「真剣に考え」るに値するものなのである。ある一時期にしか意味をなさないという事実は、まさにその時を生きる本人にとっては何らその価値を減じるものではない。

 

 これも「今も見つめる視線」のひとつの形と言えるだろう。

 

 

 今、町田洋作品にみられる「今を見つめる視線」について、二つ例を挙げて見てみた。

 これ以外にもいくつか同様の指摘をすることはできる箇所があるのだが、脱線ばかりになっても帰り路を見失うだけなので、そろそろ本筋に戻ろう。

 

 本作『砂の都』にも、「今も見つめる視線」がある。それどころか、その視線はさらに先鋭化して、「今を永遠にする視線」とでも言うべきものを見出すことさえできるのだ。

 

 まず舞台設定からしてそう言える。

 

 第3話「銀国」では、老衰で死んだ老人の記憶から、既に取り壊された首都の野外コンサートホールが再現される。老人はかつてチェロの名手であったようで、葬式のために駆け付けた楽団の一行は再現されたコンサートホールでかつての名演に思いを馳せ、もう一度かつてと同じ構成で演奏する。

 第4話「迷路」では、住民の一人がかつて初デートの際に訪れたという巨大迷路が出現する。このエピソードのラストで、主人公は少女と迷路を歩くシーンがあり、これは記憶のもとになったという「初デート」の再演という見方もできよう。

 

 このように、町には、過去のある一点を建物という形で現在に再現・固定化するという機能がある。

 

 主人公は、一瞬を切り出して永遠にする町の力を強く内面化していて、「今」の日常の永遠性を信じている。あるいは信じようとしている。

俺たちが、本当に年を取るのだろうか?

 だが、そのような淡い希望を打ち砕くように、町に起こる出来事はすべてが移り変わり過去になっていくということを突きつける。

 

 ヒロインにあたる少女は、小説家として町を出ていった姉に憧れを抱き、自らも小説家を志している。だが、久々に帰省してきた姉は結婚によりかつての激情を失っていた。姉は「もう物語に興味が持てない」と言い、小説を書くことも辞めてしまっていた。

私たちも あと何年もして色々な状況が変わったら

みんな忘れてしまうのかしら 今の気持ちを何もかも

 悄然とする少女に、主人公は建築の勉強をするために町を出ることを打ち明け、そして励ますように言う。

俺は変わらないよ

ここに戻って来さえすればみんな元通りだ

 

 今を永遠にしようとする視線と、それでも否応なしに変わっていく有様を見つめる視線。この二つが主人公と少女という二人の若者の中で交差している。

 そして、最後には無慈悲な変化の波がすべてさらい、「町」は消えてなくなり、丘そのものも海へと沈んで消えていかんとする。

 

 海に沈む直前、丘は今までに建ててきたすべての建物を一度に出現させ、さながら一個の歴史そのものになる。主人公はそこで、かつて結局伝えられずにいた少女への想いを伝えるために走り出すのだ。

 町を去った後の少女がどこにいるのかは分からない。ただ、風の噂では結婚して遠い国に行ったという。

 町がかつての姿を見せたとはいえ、それはあくまで幻のようなものに過ぎない。幻の少女に想いを伝えたところで、何かが変わるわけもない。

 それでも主人公がそうせずにはいられなかった。主人公にとって「あの日」の少女に思いを伝えることにはそれ自体で意味があることだったからだ。それで現在の状況が何一つ変わることがなかったとしても、「あの日」に想いを伝えたという事実があれば、それが永遠になる。「町」はそういう場所なのだ。

 

 ところで、今回感想を書くにあたって参考までにAmazonレビューを見ていたら、ラストに不満を抱いているレビューがちらほら見受けられた。

 消えゆく「町」で少女に想いを告げた主人公の前に、あの頃と変わらぬ姿の少女が現れて主人公の手を取る。彼女が遠い国に嫁いだというのは噂に過ぎなかったようだ。

 

 確かに、物語はここで終わってもよかったかもしれない。

 「町」を物語の中心に据えるならば、「あの日の町」で主人公が少女に思いを伝えられた時点で、エンディングは迎えている。この後に現在の世界へと戻っていく主人公の姿をあえて描く必要はあるまい。

 

 そうならなかったのは、私が思うに、この物語があくまでも彼らのものだからだ。

 彼らの手元に―――変わっていく世界で生きていく、変わってしまった主人公たちの手元に、「変わらないもの」が残らねばならなかった。「今」にないものが「永遠」になることはない。

 

 このような読み方が、私の個人的な好みに過度に寄り添ったものだという自覚はある。おそらく論理の飛躍や牽強付会も多分に含まれているだろう。普段「書かれていることを読む」を心がけている身としては忸怩たる思いもある。

 だが、一つだけ言い訳をさせてもらうならば、町田洋は読者に分かりやすく語りかけてくるような作家ではない。むしろ、作品を通してぽつぽつと心の内を吐き出していくような、それを通してはじめて、かろうじて感情の微細な振動に触れうるような、そんな作家なのだ。

 だからというわけではないが、私は今回、微細な振動に対する私の共振・・を主軸に据えて感想を書くことにした。

 果たしてこれが作品に対する誠実な態度なのかはあまり自信がないが、たまにはこういう回があってもよいということにしたい。

ブルーアーカイブ「エデン条約編」

 ブルーアーカイブというゲームをご存じだろうか。

 そう、透き通る世界観でお送りするスマホゲームだ。ネットの人間には「過酷な」の方が通りがいいかもしれないが、今はそういう話をしたいのではない。

 

 私がブルーアーカイブをインストールしたのは、確か去年の夏だったと思う。ちょうど百夜堂の水着イベントが終わる頃だった。いや違う、そういう話をしたいのではない。

 

 それまで、人気があることや何人かのキャラクターを知りつつも実際に手を出してはいなかったのは、新しいものに触れようとするエネルギーが枯渇し始めているということもあるし、単に「ガチャのあるゲームはプレイするに値しない」という第一原則に従っただけという話でもある。まあとにかく、いくら性的な女が惑わしてきたとしても、実際にゲームをプレイすることはあるまいと思っていた、のだが。

 

 ある女と目が合った。

 

 聖園ミカだ。

 

かわいい。

 

 そういうわけで、今回はこのミカという窓を通して、彼女が重要な役回りを演じるメインストーリー第3部「エデン条約編」について、感想を書いてみたい。

 

 

ブルーアーカイブの世界、そして聖園ミカについて

 まず全く何も知らない人に向けて、ブルーアーカイブの基本的な世界観について整理しよう。

 舞台は学園都市キヴォトスという、いくつもの学校が集まっている場所だ。我々プレイヤーは、キヴォトスに新しく赴任してきた「先生」としてストーリーを読むことになる。

 ここで出てくる単語のいくつかは、我々の常識とはやや異なる概念を指している。「先生」とは、学校事務や授業を担当するなどの実際的な職務というよりむしろ、大人として生徒たちを導くという観念的な使命を帯びた存在である。*1

 またキヴォトスにおける「学校」とは、生徒(人民)と自治区(領土)そして自治区に対する排他的権力(治権)を有する、国家のように独立した行政単位だ。各学校には生徒会がおかれ、これが学校を代表する権力をもつ。

 各学校の上部組織として、「連邦生徒会」という組織があるが、その長たる連邦生徒会長の失踪により実質的に機能停止している状態だ。「先生」は連邦生徒会長が外から招き入れた人間で、「シャーレ」という組織と特権的立場を与えられて、キヴォトスで起こる事件になら何にでも首を突っ込んでいく。

 

 キヴォトスには特に大きな学校が3つある。ゲヘナ学園、ミレニアムサイエンススクール、そしてトリニティ総合学園。このうちエデン条約編の主な舞台となるのは、トリニティ総合学園だ。

 聖園ミカは、このうちトリニティ総合学園の生徒会にあたる組織、「ティーパーティー」に所属する生徒の一人である。

 ティーパーティーは桐藤ナギサ、百合園セイア、聖園ミカの3名からなり、交代で「ホスト」として代表権を握ることになっている。現ホストはナギサで、したがってミカは「ホストではないティーパーティー」として、実権はないもののある程度の権威と影響力をもつという、微妙な力関係にある。

 そのような立場にありながらも、ミカは「政治に向いていない」と評されることもあるような、大局を見て物事を判断することを苦手とする人物だ。よくいえば無垢で純粋、悪くいえば浅慮で幼稚。そしてタチの悪いことに、トリニティでも一二を争う戦闘力をもっている。*2

 そんなミカが、様々な思惑に翻弄される中で傷ついていくさまを、ストーリーを追う形で見ていきたい。

 

 

「エデン条約」と「トリニティの裏切り者」

 ストーリーは、「エデン条約」の締結を目指すナギサが、それを阻止しようとしている「トリニティの裏切り者」を探し出すよう、「先生」に依頼するところから始まる。

 

 エデン条約とは、キヴォトス三大勢力の2校、トリニティ総合学園とゲヘナ学園の間の平和条約である。

 両校は伝統的に不仲で、最早どうして憎み合っているのか誰もよく分からないまま、断続的な小競り合いを続けている。そんな状況に終止符を打つべく、トリニティとゲヘナが公に和解を宣言するとともに、共同で「エデン条約機構」という機関を組織し、両校の間で紛争が生じたら共同して鎮圧にあたることとする―――それによって平和を保つというのが、エデン条約の趣旨である。

 

 ティーパーティーのホストであるナギサは、エデン条約を締結しゲヘナと和解しようとするが、両校の間に横たわる溝は深い。トリニティ内にも、ゲヘナと仲良くなんてありえない、という考えをもつ向きもあった。ナギサはトリニティ内部で条約の締結を阻止しようとする「裏切り者」がいると言い、疑心暗鬼に陥っていく。

 

 その「裏切り者」が、聖園ミカだ。

 ミカのゲヘナ嫌いは筋金入りで、どこまで本気かはさておき「ゲヘナと全面戦争をする」とまで言い放ったこともある(これがミカの精神が不安定な時期の発言であることを割り引く必要はあるが、最終章でゲヘナとトリニティが同じテーブルについたシーンでも、真っ先に喧嘩をふっかけて火蓋を切ろうとしたのはミカだった)。

 

 ミカがどうしてそこまでゲヘナを嫌うのか、理由はよく分からない。同様にゲヘナを毛嫌いする人物にたとえばハスミがいるが、険悪とはいえ会話を試みているハスミと違い、ミカはそもそもゲヘナ生とまともに会話を交わしたことがあるかどうかさえも怪しい。

 ナギサやセイアであれば個人的感情を措いて一歩引いたところから見るであろうところで、ミカはむしろ自分の感情をそのまま押し通そうとしているのだ。まがりなりに組織のトップに近い立場の人間の精神性としては、未熟のそしりを免れないだろう。ミカが政治に向いていないと言われる一端がすでにここにある。

 

 これから私はストーリーを追いながら、ミカがいかに「幼い」かをさんざん指摘していくことになる。

 

「アリウス分校」とミカ

 このようにトリニティとゲヘナの間には深い溝があるが、それとは別に、トリニティと確執をもつ集団がある。

 それが「アリウス分校」。アリウスはトリニティの成立過程にまつわる因縁をもつ集団で、かつて互いに対立しあっていた諸分派が統合して「トリニティ総合学園」になったとき、最後まで反発していた一派だ。

 結果としてアリウスはトリニティから追放され、歴史の闇に葬られた。やがて時が経ち、トリニティがアリウスのことを忘れ去ってしまっても、アリウスは密かにトリニティへの憎しみを育て続けていた。

 

 そんな根深い問題を抱えたアリウスだが、ミカはアリウスに対しては驚くほど好意的かつ楽天的だ。

 ……私は、アリウス分校と和解がしたかった。

 でもその憎しみは、簡単には拭えないほど大きくて……これまでの間に積み上がった誤解と疑念もあまりに多い。私の手には、負えないくらいに。

 けどナギちゃんもセイアちゃんも私の意見には反対だった……政治的な理由でね。でも、それも分からないわけじゃない。私たちは、ティーパーティーだから。

 私は不器用だから、そういう政治とかはちょっと得意じゃないんだけど……でも、また今から仲良くするのってそんなに難しいのかな?

 前みたいにお茶会でもしながら、お互いの誤解を解くことはできないのかな?

(第1章第17節「トリニティの裏切り者」)

 ゲヘナに対しては形式的な和平条約さえも認められないと強硬な姿勢を見せるミカは、アリウスに対しては素朴に和解と融和の可能性を信じる。

 ミカの視点に立てば、全く異なる文化をもつゲヘナと違い、アリウスとトリニティは教義に多少の相違をがあるぐらいで、元をたどれば同じ文化的土壌を共有しているとは言えよう。ゲヘナとトリニティの対立は互いにとって互いが「異物」だからだが、アリウスとトリニティの対立は明確に歴史的なものだ。

 

 ミカがアリウスとの和解を信じるのは、そうした歴史を軽視しているからだ。かつてトリニティがアリウスを弾圧し追放したという事実を、それによってアリウスに刻まれた傷と憎しみを、ミカは自分事としては引き受けない。

 逆に、ミカがゲヘナを決して受容しないのは、今そこにある差異を絶対化しているからだ。互いに分かり合うという選択肢を頭から排除し、敵として戦うしかないと決めてかかっている。

 ミカには常に、目の前にある問題と目の前にある結果しか見えていない。その視野の狭さと近視眼的な態度も、また彼女の幼さを示すものだと言えよう。

 

アリウスとの接触

 時系列順に言えば、ミカがアリウスとの和解を求めて密かにアリウスと接触したのが始まりになるだろう。この時点ではまだ、エデン条約は影も形もない。

 ここでミカはアリウスの代表として出てきたサオリに対し、ある提案をする。

 それがアリウスの生徒をトリニティに転入させること。もちろん表立っては不可能なので、ティーパーティーとしてのミカの権限を使って秘密裏に、ということになる。その目的は、「アリウスの生徒がトリニティでもちゃんと暮らしていけて、幸せになれるんだって、みんなに証明してみせ」ることだ。そしてミカの提案に乗る形で、アリウスの生徒たちがトリニティの内部に引き入れられる。

 だがこれはアリウスによるトロイの木馬だった。

 後にわかることだが、この時アリウスはベアトリーチェという存在*3によって支配されており、真っ当な学校の体をなしていなかった。

 ともあれ、ミカの無邪気な善意からくる提案はまんまと利用され、アリウスの先兵をトリニティ内部に招き入れる形となってしまったことになる。ミカが政治が苦手だというのは確かなようだ。

 そんなことはつゆ知らないミカは、アリウスを自分が好きに使うことのできる私兵として扱い、ティーパーティーのメンバーであるセイアを襲撃するよう指示した。

 

 ミカの人生に分岐点があったとすれば、ここだ。

 

 もともとセイアとミカの関係は良好ではなかったようだ。理知的で堅苦しい話し方をするセイアに対し、感情的で奔放なミカが苛立ちを覚えていたという話もある。アリウスやエデン条約をめぐって見解の相違もあっただろう。

 ミカにとって当面の目標はエデン条約の阻止だ。しかしホストであるナギサが条約を推し進める限り、ミカに正攻法での勝算はない。そこで、ミカはホストの地位に就くこために、自分以外のティーパーティーメンバーの排除を画策したのだった。

 

 だが、せいぜい病院送りになればいいと考えていたミカの思惑に反し、アリウスはセイアの「ヘイローを壊して」しまう。

 ヘイローとはキヴォトスの生徒たちの頭上に浮かんでいるリング状の物体で、何なのかはよくわかっていない。ただ、生徒たちにとって「ヘイローが壊れる」とは「死ぬ」を意味する。

 この時、実はセイアは身を隠していただけで生きていたのだが、セイア死亡の知らせを聞いたミカはひどく動揺し、自分が「人殺し」になってしまったという罪の意識に苛まれはじめる。「人殺しの罪」はエデン条約編におけるキーワードの一つで、特にミカにとっては最重要概念と言ってもいい。

 幼気なミカはこの罪の意識によって壊れ、歪んでいく。

 

補足:人殺しの罪

 ここで少々話は逸れるが、「人殺しの罪」がエデン条約編のストーリーにおいてどれほどの重みをもつかについて、例を挙げて補足をしよう。

 セイア襲撃ののち、ミカの手引きによってアリウスから白洲アズサという生徒がトリニティに編入した。アズサはゲリラ戦術を叩きこまれた特殊戦闘員で、アリウスの命令でセイアを襲撃した実行犯でもある。彼女は次なる標的としてナギサを狙っている―――と思いきや、アリウスの命令に反してティーパーティーを守ろうとする、いわゆる二重スパイの役回りだ。

 トリニティでヒフミやコハル、ハナコといった友人と出会い、そこに居場所を見出したアズサはアリウスから離反し、暴走するアリウスを止めるためにサオリの「ヘイローを壊す」決心をした。

 アズサは優秀な戦闘員ではあるが、サオリはその師である。地力で劣るサオリに対し、アズサはぬいぐるみの内部に「ヘイローを壊す爆弾」を仕込むことで油断を誘い爆破に成功した。だがこのぬいぐるみこそ、トリニティでアズサがヒフミから譲り受けたもので、彼女が見出した「日常」を象徴するものだ。

 だが、人殺しの罪はその「日常」への回帰を不可能にする。

 サオリの爆破のあとで雨の中うずくまるアズサのシーンは、専用の一枚絵が用意されていることもあり、特に印象的な場面の一つではないだろうか。

 

 

 仮にサオリを殺害してもなお「日常」に戻ることが可能であったなら、アズサは何があってもぬいぐるみを手放しはしなかっただろう―――まさにサオリが「アズサは必ずぬいぐるみを取り返しに来る」と考えたように。大切な友人から贈られたぬいぐるみは、彼女が「日常」へ帰るよすがとなるはずのものだった。

 人殺しとなった自分が二度とそこへ帰れないことを、アズサは知っていた。そうした「人殺しの罪」の重さを念頭に置かなければ、それでも「日常」を守ると決めた彼女の決意の悲愴さを理解することはできないだろう。

 予知夢を見る能力をもつセイアは、この場面までを見て「これが物語の結末」だと言った。「日常への回帰」はブルーアーカイブのストーリー全体に共通するテーマの一つでもある。それが永遠に失われた今、もはやその先に意味はない。

 実際、この物語がここで終わらずに済んだのは、アズサのサオリ殺害が失敗に終わっていたからだとも言える。アズサが本当の意味で人殺しになってしまっていたら、このストーリーはセイアの言うように「ただただ後味だけが苦い物語」になっていたかもしれないのだ。

 

 さて、このように「人殺しの罪」は物語を悲劇的に終わらせてしまうほど重大だということを確認したところで、話を戻そう。

 

壊れ始めるミカの心

 ここまでくれば、セイア襲撃を指示したことがミカの人生の分岐点だということも納得してもらえるだろう。

 ミカにその意図がなかったとはいえ、結果的にミカはセイア殺害を指示した張本人ということになる(とミカは思っている)。ミカはセイアを殺してしまったという罪の重さに耐えられず、暴走を始める。

 この時から、ミカさんの心は壊れ始めたのではないでしょうか。

 おそらく、パニックに陥ったことでしょう。セイアちゃんが死んでしまうなんていう、取り返しのつかないことになってしまった。自分は実質的に、「人殺し」になってしまった……

 こうなった以上、もう徹底的にやり抜くしかない。何を犠牲にしてでも、最初に描いたところまで辿り着くしかない……

 そんな、自暴自棄ともいえる破壊的な衝動で……

(第3章第3節「ポストモーテム(3))

 これは浦和ハナコによる分析で、ミカ自身は「勝手に人の心を推理しないでくれる?」と否定するが、ミカの自己欺瞞的傾向も考えれば、この分析はおおむね当たっていると考えてよいだろう。

 

 ところで、こうして俯瞰してみると、ミカの行動はあまりに軽率が過ぎるのではないかという見方もあろう。
 セイアを殺すつもりはなかったのだとしても、病弱で決して戦闘に秀でているとは言えないセイアを襲撃した時点で、そういう「間違い」が起こってしまうことは予見できたのではないか。人殺しの罪が取り返しのつかないほど重いにもかかわらず、事前にそのリスクを考慮さえしなかったというのは、いささか浅慮の範疇を越えているのではないか?


 もちろんミカがそういう類の軽率さをもっているのは確かだが、この点についてはまた別の事情もある。というのも、「ヘイローを壊す」ことは人間を殺害するのに比べてはるかに難しいのだ。
 腹を一発撃たれただけで致命傷になりうる貧弱な人間と違い、キヴォトスの生徒たちは鉛球を数発食らったところでまず死にはしない。アズサ曰く、尋常ではない火力を異常なほど叩き込めば、「銃火器だけでヘイローを壊すことも、不可能じゃない」。裏を返せば、銃火器ではヘイローを壊すことは基本的にできないということだ。

 だからアリウスは、セイア殺害のために「ヘイローを壊す爆弾」という特別な武器を用意したのである。ちょっと銃で撃ったからってまさか死ぬわけない、という認識は、キヴォトスにおいてあながち楽観的すぎるとは言えない。
 となると、セイア襲撃によって「間違い」が起こる可能性は、我々が普通に考えるよりもずっと少なかった―――誰かが明確な殺意をもってヘイローを破壊しようとしない限りは。これほどの殺意を備えた人物はブルーアーカイブのシナリオ全体を見渡しても数えるほどしかいない。しかし、ベアトリーチェに支配されたアリウスはそのような悪意と殺意の渦巻く場所であった。


 ミカには、このような殺意の存在を想像さえできなかった。それはトリニティという比較的切った張ったの荒事が起こりにくい環境で、ティーパーティーという特権的立場に浴してきた、ある種の「温室育ち」ゆえであろう。

 

 さて、罪の意識に追い詰められたミカは、ティーパーティーのホストになるという当初の目的を完遂するため、残るナギサの排除に乗り出す。

 ティーパーティーとしての権力、アリウスの兵力、そして自らの戦力を総動員してナギサを襲撃しようとするミカ。しかしアリウスから離反したアズサのリークによって襲撃は事前に察知され、「先生」やアズサたちによって迎え撃たれることになる。(なお、上で紹介したアズサがサオリを襲撃するエピソードはこの時点より後、第3章だ。)

 

 結果として、ミカは敗れた。

 第三勢力の加勢などもあったが、ミカが武器を置いたのにはセイアが生きていることを知ったことが大きいだろう。持ち前の圧倒的な戦闘力で全てねじ伏せることも可能だっただろうミカは、セイア生存を知るやあっさりと投降する。

 ミカは監獄に入れられ、「トリニティの裏切り者」をめぐる一連の物語はひとまず一件落着する。ここまでが第2章の物語だ。

 

ミカを苦しめる「他の誰でもなさ」

 続く第3章は、ついにエデン条約が調印されようとするところからだ。

 この調印会場にアリウスが巡航ミサイルをぶち込んだり、「エデン条約機構」が乗っ取られたり、ユスティナ聖徒会なる歴史上の武装集団が「複製」されたり、ヒフミが天気の子になったりするのだが、その間ミカはずっと監獄にいてほとんど話には絡んでこないので、ばっさり省略させてもらうことにする。

 

 いや、一つだけエピソードがあるので取り上げておこう。

 アリウスの発射した巡航ミサイルによってトリニティ・ゲヘナ両陣営の主要人物たちが軒並み病院送りになり、指揮系統が崩壊して状況が混沌に陥っていたとき、この機に乗じてトリニティの過激派の生徒たちがゲヘナに宣戦布告しようとする場面がある。(トリニティは何かとお嬢様学校のような扱いをされるが、あくまでキヴォトスの学校にしてはという話であって、治安は普通に悪い。)

 このとき、過激派がリーダーとして担ぎ上げようとしたのがミカだった。

 ミカは反ゲヘナの急先鋒である上、投獄されたとはいえまだティーパーティーのメンバーでもある。開戦へ向けて精神的支柱を求める生徒たちが担ぎ出すのには、まさにうってつけの人材と言えよう。それほど容易く手綱を握れるような物わかりのいい人物ではないという点に目をつぶればだが。

 ……それで? だから何? どうしてそんな、命令を欲しがって来たわけ?

 ほかの派閥を抑えたんでしょ? 実際のところ、宣戦布告なんて手続きもう要らないじゃん。今すぐにゲヘナに殴りかかればいいのに、自分たちの代わりに怒って、命令してくれって……何それ、面白いことするね?

 (中略)

 お耳掃除でもしてあげようか? 命令されなきゃ憎むこともできないの、って言ってるの。

 ミカは自分を監獄から連れ出しに来た生徒たちを相手に、冷ややかな視線を浴びせる。ミカは格下で自分の意に沿わない相手には普通に侮辱したり嘲笑したりする。幼い子供をイメージすれば分かりやすいだろう。

 本当にゲヘナが憎いのであれば、自分など担ぎ上げていないでさっさと殴りに行けばいい―――最終編で真っ先に殴りかかろうとした実績のある女の台詞だと思うと説得力があるが、彼女がゲヘナを嫌うのは何か理由あってのことではなく、あくまでも彼女自身の気分と気持ちの問題だ。ミカは「今はそういう気分じゃない」と言って過激派生徒たちをすげなく袖にする。(なお、このあと激昂した過激派生徒たちは無抵抗のミカを集団リンチにかける。普通に治安が悪い。)

 

 気分に従うミカのこの性向が、彼女の「幼さ」を示すものであることは言うまでもないだろう。一方で、ここで示されている別の側面もまた見逃してはならないように思われる。

 すなわち、ミカの感情は「誰かのもの」ではないということだ。

 ミカは、憎むことさえ誰かに代わりにしてもらわないといけない過激派生徒たちを冷笑する。裏を返せば、ミカの憎しみは他の誰でもない自分自身のものだ。ミカは誰かの代わりに憎むことも、誰かに憎しみを委ねることもできない。

 罪の意識に苛まれて潰れそうなとき、ミカはそれを外部化できず、全ての罪を一身に引き受けざるを得ない。目の前のものしか見えないということは、目の前にあるものから目をそらすことができないということでもある。

 あくまでも自分のこと自分のこととして引き受けていく、この「他の誰でもなさ」こそが、まさにミカをここまで追いつめているのだ。

 

救いを拒否するミカ

 ストーリーを進めよう。

 それらの騒動がひとまずの解決を見たのち、トリニティでは聖園ミカの聴聞会が開かれることになった。

 聴聞会とはいうが、実質的な裁判だ。アリウスと手を組んでクーデターを起こそうとした件について事情を聴取され、今後の処遇が決められる。トリニティ内でのミカへの非難は相当に激しいようで、ここで対応を間違えば退学にもなりうるという状況だ。

 そんな切迫した状況にもかかわらず、ミカは聴聞会自体を欠席しようとしていた。

 ミカが罪の意識によって傷つき歪んでしまったことは既に述べてきたとおりだが、この聴聞会はまさにその罪を雪ぐための絶好の機会だと言える。様々な事実や事情を突き合わせ、負うべき責任範囲を確定させ、刑罰を言い渡す。現実の裁判にも共通する、罪を償うための基本的な手続きだ。

 もちろんそれですべてが丸く解決するわけではないだろうが、ミカが罪から解放されるためには必要なプロセスでもある。にもかかわらず、ミカは聴聞会を欠席しようとしている。なぜか。

 

 他ならぬミカ自身が自分の罪を許されないと感じているからだ。

 ミカは怒り狂ったトリニティ生たちに石を投げられ、私物を没収され、思い出の詰まった品々も焼かれるなど、既にかなりの私刑を受けている。ナギサや先生が「もう十分代償を支払った」と考えているのにも関わらず、ミカはなおも自分が犯した罪を償いきれていないと感じているのだ。

 聴聞会に出ないのは、最も重い処分―――退学―――でさえ自分にふさわしいと思っているから、そしてそんな自分をナギサが庇うことで、彼女の立場が危うくなることを望まないからだ。

 

 ここでミカが救いを拒んでいることが分かるシーンを一つ挙げよう。第4章の冒頭、ミカが監獄の中で賛美歌を聞くシーンだ。

 キリスト教をモチーフにしているトリニティには、礼拝の時間に賛美歌を聞くという文化があるらしい。そのタイトルは”Kyrie eleison”。これは第4章のタイトル「忘れられた神々のためのキリエ」にも使われている。

 “Kyrie eleison”はおおよそ「主よ、憐れみたまえ」などと訳される祈りの言葉だ。ちなみに、ブルーアーカイブにここまでガチガチのキリスト教的フレーズが出てきたことに私は少し驚いた―――というのもキヴォトスにおいて「神」は既存の宗教的神とは明らかに異なる概念だからだが、この点はいったん脇に置いておこう。*4

 ミカはこの歌について、次のように述べる。

 Kyrie eleisonなんて、名前も気に入らない。どうしても見えもしない存在に縋らなきゃいけないの?

 「憐れみたまえ」だなんて口にしたところで悲惨なだけじゃん。そんなの自分にも、他人にもするものじゃないよ。

 神学的には―――先ほど脇に置いておくと書いたばかりではあるが―――「憐れみ」は「救い」につながるものだ。神の憐れみによってはじめて人は救われることができる(イエス磔刑によって人間の原罪が贖われるように)のだから、いかなる憐れみをも拒否するミカは、救いそのものを拒否していると言えよう。

 

 ミカを救うことができるのは、ミカがまさに罪を犯しかけた相手、セイアだけだった。

 私はそれでも許されない……セイアちゃんにもまだ、恨まれたままで……。

 ここまで見てきたように、ミカは手続きよりも自分の感情を優先する、直情的な人物だ。であれば、彼女が真に赦されるために必要なのは、手続き的な赦しではなく感情的な赦しである。セイアに赦されない、セイアに謝れていないということが、ミカの救いへの希望を断ち切っている。

 ミカの罪は、客観的に言えばセイアに赦されるだけで済むものではない。外患誘致とクーデターはトリニティという学園に対する攻撃であり、セイア個人に対する攻撃はその一部に過ぎない。にもかかわらず、彼女の自責はあくまでも「セイアに赦されていない」という一点に集約していく。

 引き受け、償い、乗り越える―――そういった罪に対する成熟した態度を、ミカは持ち合わせていない。「相手に『いいよ』と言ってもらって仲直りする」という小学校的な赦され方しか、ミカは知らないのだ。

 

 だがそれでいい。それでいいはずだった。ミカのそばにはそんな彼女を受け入れてくれる友人たちがいる。ナギサはミカのためにあらゆる手立てを講じ、セイアはミカを許すつもりだった。

 

「魔女」ミカの復讐

 ミカという少女は、つくづく運がないらしい。

 彼女を許し、彼女を救ってくれるはずだったセイアは、突如「キヴォトス終焉の予知夢」を見たことで動揺し体調を崩し、さらに夢を介してゲマトリアのやり取りを聞いたことで、水面下で「先生」の身に迫る危機を知り、追い詰められる。

 そして、よりにもよって呼び出したミカに対し、感情のままに次のような言葉を投げかけてしまう。

 君がアリウスに接触したことによって……。

 先生が……スクワッドに狙われている……。

 君が、先生を連れてきたから……!

 この台詞の直後、セイアは倒れてしまう。

 赦しの言葉を期待してやってきたミカにとって、このような言葉がどんな呪いになるのかは想像に難くないだろう。ミカはやはりセイアに赦されてなどいなかったのだと絶望し、淡い希望を抱いたことを自嘲する。

 

 この時、ミカの心は壊れてしまった。

 

 セイアに赦されるかもしれないという微かな希望さえ完全に潰えてしまったミカは、自らのことを罪ありし存在―――「魔女」と再定義する。

 罪に飲み込まれ、罪を飲み込んだ「魔女」ミカは、皮肉にも、罪の呵責から解放されたことでかえって事の成り行きを振り返る余裕が生まれた。

 ……なんだ、考えてみたら簡単なことじゃん。

 ……「アリウススクワッド」の錠前サオリ……すべては……。

 あの女が元凶なんだから。

 あの女が私を利用して―――セイアちゃんのヘイローを壊そうとして、ナギちゃんにミサイルを飛ばして、先生を傷つけて……。

 全部……ぜんぶ、ぜんぶ、ぜーんぶ! あの子が計画したことだった。

 もっとも、実際にはサオリはベアトリーチェの指示に従っているにすぎないのだが、そのようなことミカには知るはずもない。

 うん、そう。そうだよ―――あの女も……。

 私が奪われた分だけ、同じように奪われなきゃ不公平でしょ。

 あの女の大切な人も、同じように……全部。

 奪われた分だけ奪ってもよい―――ミカでも分かる単純な論理だ。

 だが確かに、ミカが背負ってしまった罪は、本来ならばミカが背負う必要のなかった罪である。本当はサオリに帰せられるべき責任が、幼いわがままを利用される形でミカの身に降りかかったに過ぎない。ミカにはサオリにツケを払わせる権利がある。

 

 かくして、ミカは「魔女」としてサオリへの復讐を開始する。

 

 彼女の戦闘力は折り紙付きだ。

 ミカは監獄から脱出するために、素手で壁を破壊する。これは全体的に身体能力の高いキヴォトスの生徒から見ても異次元らしい。こうなると大人しく監獄にぶち込まれていたこと自体の意味も変わってこようが、そうしたしがらみから解き放たれた「魔女」ミカは、もはや誰にも止めることはできない。

 

 そんなミカを諭しうる存在に、「先生」がいた。

 「先生」は生徒を導く大人として信頼されているだけでなく、ミカにとってはそれ以上の心を寄せる相手でもある。ちょうどこの時、「先生」はサオリの懇願によってサオリたちと行動を共にしていた。

 サオリを追ってきたミカと「先生」が対峙したとき、ミカはやはり少なからず動揺する。しかし、すべてを失ってただ独り走り出したミカに、止まるという選択肢はなかった。

 それでも……。

 私は……追いかけるよ。追いついて、復讐する。

 私を軽蔑するかな……それとも、ガッカリするかな……。先生にだけは、嫌われたくなかったなぁ……。

 ……でも、それでもね―――私は、自分を止められないの。

 ごめんね……だって……。

 私はアリウススクワッドを絶対に許せない―――たとえ魔女と呼ばれ続けたとしても、地の果てまで追いかけて、復讐しないとダメなの。

 ……だから先生、私を止めないでね。

 ミカはその後も執拗にサオリを追う。それは同時に「先生」を追うということでもあった。

 二度目にサオリと「先生」の前に立ちはだかったとき、ミカはとうとう感情の堰が決壊して泣きじゃくり始める。

ミカの心はもう限界を迎えている。

 私はトリニティの裏切り者で、みんなの敵で……

 ―――何度もセイアちゃんを傷つけてしまった魔女だから……。

 学園から追い出されたら、ナギちゃんにも、大切な人たちにも……二度と会えなくなる……。

 生徒じゃなくなったら、私みたいな問題児、先生だって、もう会ってくれないよ……。

 私にこれ以上幸せな未来なんか訪れないってことも、よく分かってる……。

 わ、私は……悪党だから……人殺しだから……。

 だから……私に残っているのはこんなもの・・・・・しか、ないの……。

 なのに、あなた達は……どうして?

 私は大切なものを全部失ったのに!

 ―――ぜんぶ、奪われたのに!!

 あなた達は……どうして?

 あなた達が何の代償も支払わないで、何も奪われないでいるなんてそんなの……。

 そんな事、許したら……私は……

 私は……何物でもなくなってしまう……。

 私には、何の意味も残らない……。

 ミカは既にすべてを失ってしまった。彼女が守りたかったものも、彼女が手に入れたかったものも、何もない。彼女の手元に残されたのは、背負いきれない罪と復讐心、そして一丁の銃だけだ。

 

 そして遂に運命の時が訪れる。

 旧校舎の地下通路を通ってベアトリーチェの元へと向かおうとするサオリ一行に対し、ミカは柱を倒壊させることでサオリだけを分断することに成功した。

 

 この時のミカは、壊れて崩れそうな心を、サオリへの復讐心だけでギリギリつなぎとめている状態だ。サオリが「お前が望んでいたのはこんな事だったのか?」と問うても、ミカは「私、何を望んでたんだっけ……ああ、うん……そうだね。目的達成、みたいな?」と要領を得ない返事しか返すことができない。

 ミカは自分が何を望んでいるかさえ分からなくなっている。自責と自罰を重ね、希望を断ち切った彼女には、もはや何がどうなろうと構わないのだ。―――ただ、自分と同じだけの罪をもったサオリが自分と同じ目に遭ってさえくれれば、何でも。

 そしてサオリも、またその憎悪に応える準備があった。

 

アリウススクワッドのサオリ

 ここで、錠前サオリという人物について詳しく確認しておこう。

 クライマックスが近いのにまた脱線かと思われるかもしれないが、結論を先取りすれば、ミカはサオリを「自分と同じ」だと見なすことによって救いへの道を見出していくことになる。

 ここからのミカの変化を捉えるためには、その鏡となるサオリのことも視野に収める必要があるだろう。

 

 サオリはアリウス自治区の貧民街に生まれ育った生徒で、「スクワッド」と呼ばれる作戦実行部隊のリーダーだ。

 アリウスはトリニティと袂を分かった後も長く内戦が続いていたようで、その負の感情を利用される形で、ベアトリーチェによる専制支配を許していた。ベアトリーチェは基本的に生徒たちを使い捨ての駒としか思っておらず、洗脳まがいの教育を施されたり、時にヘイローを壊される生徒が出るなど、アリウスの現状は悲惨の一言だ。

 スクワッドはリーダーのサオリと、幼い頃から家族のように生活してきたミサキとヒヨリ、そして「姫」とあだ名されるアツコの4名からなるチームだ。

 ミサキは自殺志願者、ヒヨリは口を開けば「この世には苦しみしかない」と嘆いていて、アツコはやがてベアトリーチェによって儀式の生贄に捧げられることが決まっている。彼女たちの人生はあまりに過酷だ。

 

 そんな中で、サオリは精神的支柱となる人物である。

 彼女はミサキ、ヒヨリに戦闘訓練を行い、生贄の運命からアツコを救うためにベアトリーチェから交換条件を引き出す(もちろんベアトリーチェには守るつもりなどさらさらない)。貧民街の乞食だった彼女たちが、まがりなりにスクワッドという立場を得ることができたのは、ひとえにサオリの手腕によるものと言えるだろう。

 

 ベアトリーチェによる支配の過酷さをうかがい知ることができるシーンを一つ紹介しよう。

 サオリの断片的な回想の一つなので前後の脈絡はよく分からないが、サオリが何らかの廉で牢獄に入れられているシーンだと思われる。

 ……許してください……申し訳ございません……。

 二度と……二度とこのようなことは……。

 二度と、大人の言葉を破りません……反抗しません……将来に希望を抱かないよう努めます……。

 二度と幸福を望みません……祈りません……。

 だから、どうか……

 どうか……慈悲を……。

 慈悲を……。

 ベアトリーチェの支配するアリウスでは、「幸福を望む」ことも、「祈る」ことさえも許されない。こうしてアリウスの生徒たちは徹底した禁欲と服従、そして"vanitas vanitatum"―――「全ては虚しい」という歪曲された教え――を叩きこまれるのだ。

 

サオリとミカの独白

 こうした教育に従って数々の任務を遂行してきたサオリは、自らの庇護下にあったはずのアズサの離反によって自らを見つめ直すことになる。

 アリウスの歪んだ教育に屈せず、トリニティでの生活を経て「晴れやかで幸福に満ちた青空の下へと」歩み出していくアズサを見て、サオリは「あんなもの嘘だ」と否定しながらも、最後には自分の過ちを認めざるを得なかった。

 

 私たちの憎悪も……「すべては虚しいもの」という言葉も……

 ―――全部、嘘だったんだ……。

 愚鈍で惰弱だった私は……疫病神のように周囲を破滅に追い込んだんだ……。

 ―――嗚呼、結局、そういう事だったんだな。全て、私が原因だった。

 アズサは私から離れられたから幸せになれたんだ。

 私は、その真実を最後まで否定したかったのだろう……。

 アズサ、お前なら……正解が分かるのか?

 アズサ……私は……。

 ―――幸せに、なれるだろうか?

 どうすれば、私もお前のようになれるのだろうか。そんな機会は存在するのだろうか? 私が、そんなことを願ってもいいのだろうか……?

 

 激しい一騎打ちの後、敗れたサオリの独白を聞き、ミカは涙を流す。

 

 私も……

 あなたみたいに、そんな機会を望んでいたの……

 私も、幸せになりたかった……。

 

 あなたは……私だよ、サオリ……。

 あなたは幸せになれない。私が幸せになれないのと同じように。

 

 でも、だからこそ……私にはできない……。

 私が、あなたの結末をこんな風に決めてしまったら……。

 私に救いなどないと、自ら証明することになってしまう……。

 

 この時ほど、ミカの言葉が真っすぐだったときはないだろう。

 エデン条約編に登場するミカは、既に「裏切り者」として罪に打ちひしがれ、一縷の希望さえも見失いながら暗闇の中に足掻いていた。彼女が裏切り、傷つけてきた人たちに向かって、どうして「幸せになりたい」などと言えるだろうか? ミカには幸福を願うことさえも許されていなかった。

 彼女を縛るその鎖の隙間を縫うように、ミカは遠回しな言い方を探して、仄めかすような仕草を見せて、童話のように王子様が救い出してほしいという淡い願いを懸けるのだ。

 そんなミカが、初めて素直な心情を吐露できる相手が、サオリだった。

 

 そして彼女は、アツコを助けるためにベアトリーチェの元へと急ぐサオリたちのために、迫りくる敵の軍勢を一手に引き受ける。

 

 サオリ……私は、自分が受けた痛みをあなたに感じてほしかった。そうじゃないと不公平だと思っていたの。

 でも……そうだね……

 私と同じように、あなた達も救われたかったよね。

 あなた達も……幸せになりたかったよね。

 あなたがアツコを助けたい気持ちも分かるよ……。

 多くの人を騙し、絶望に陥れたあなたでも……

 最後の最後に、誰かを救うことができたなら……

 苦痛だらけのあなたの人生も、それだけで救われる……

 ……そう、思ったのでしょう?

 わかるよ―――私とセイアちゃんもそうだもの。

 

 だから……アリウススクワッド。

 あなた達のために、祈るね。

 

 ミカはいつだって自分のことばかりだ。人の言うことなど聞かないし、ましてや気持ちなど知る由もない。

 そんなミカが、同じ罪と罰を背負っている相手として、はじめて他者を自分と同じだけの重みをもった存在だと見なすのである。これがどれほど特別なことかを説明するために、私はここまでひたすら字数を費やしてきたと言っても過言ではない。

 

 どこまでも自己中心的で自己完結的な幼い少女が、自分と同じ救いを求める誰かのために祈る―――この物語を通して、ミカは少しだけ成長した。いや、ミカはたったこれだけのことを学ぶために、これほどの犠牲を払わねばならなかったと言うべきか。なんという不器用さ、なんという健気さだろう。ああ、愛しい。

 

 いつか……

 いつか、あなた達の苦痛が癒えることを―――

 やり直しの機会を希うのと同じように―――

 あなた達に未来が……次の機会がある事を―――

 だから、私は……

 ―――あなた達を赦すよ。

 それは互いが公平に不幸であることよりも、もっと良い結末だろうから。

 ―――例えアツコを救ったとしても、あなた達の未来はきっと苦難に満ちている。

 一生追われるかもしれない……表を歩くことができないような悲惨な人生になるかもしれない。

 でも、それでも……

 あなた達の未来に、ほんの一筋でも光明があると信じるのなら―――

 アツコを助けることで、あなたたち自身をも救えばいい。

 私はもう手遅れだけど……あなた達には、まだ時間が残されているでしょう?

 それに……先生が手伝ってくれているから、きっと大丈夫……。

 あなた達のその行く先に幸いが―――

 祝福が、あらんことを―――

 

 監獄の中で「Kyrie eleison」を聞いたシーンのことを思い出そう。

 今、ミカが祈るのは憐れみではなく、祝福だ。サオリたちが救われるのは憐れまれるべき存在だからではない、祝福されるべき存在だからである。憐れみを拒否したミカの出した答えがこれだ。

 

 だが、ミカが言う通り、彼女はまだ救われてはいない。

 サオリの罪は、ミカが赦し、アツコを救うことによって多少なりとも贖われる。ではミカの罪は? 彼女が赦しを乞い罪を贖う相手は、セイアであり、トリニティだ。ミカが罪を雪ぐべき相手も、その状況も、ミカが監獄を飛び出した時から何も変わってはいない。

 ただ、サオリが救われることで、ミカ自身が救われることができるようになる。「魔女」はいなくなり、少しだけ成長した少女の姿だけがある。実のところ、ミカに必要だったのはそれだけだった。

 その証拠に、ミカは全てが解決したハッピーエンドの中で、ナギサとセイアに「大好き」と伝えることができるのだ。

 

おわりに

 さて、エデン条約編におけるミカというキャラクターについて、書きたいことはおおよそ書くことができたと思う。

 肝心のクライマックス部分が駆け足になってしまったのはやや心残りだが、このままではいつまで経っても書き終わらないので、やむなしということにしよう。(この下書きを作成した日から、なんと8週間も経過している!)また、考えが整理されたら手を加えて完成させるためのたたき台とでも思っておく。

 

 もちろん、ここまで16850字ほど使ったものの、ミカというキャラクターの全てを語り尽くしたとは到底言えない。

 ミカと「先生」の関係にはごく簡単にしか触れていないし、コハルに至っては名前しか出てきていない。ナギサやセイアとの関わりも、専ら「罪の意識」という観点でしか述べられていない。これらはいずれも、人によってはミカというキャラクターの中心に据えられることもある重要な要素だ。

 

 本記事では、あくまでもストーリー上でミカが演じる役割、そしてその中でのミカの成長にフォーカスを当てた。

 そこには、私がそういう見方でしか物語を読むことができないという事情も多分に含まれてはいるが、そここそが、私がミカの魅力を見出している部分であることもまた事実だ。

 特に、ミカとサオリの関係―――「自分と同じである」がゆえに個人的な感情が共有されうる、という関係―――は、どうやら私にとってツボであるらしい。リリカルなのはDetonationについて、私は同じようなことをよく壁に向かって話している。そういう病気なのだ。

 

 

 

 ところで、どうやら本日5月8日はミカの誕生日らしい。

 普段あまり誕生日などには気を留めない私だが(自分の誕生日さえ当日に思い出せることの方が稀だ)、今日中に投稿することで、ささやかながら彼女への祝いとしたい。

 

 

 

*1:「不完全で未完成な生徒たちを、大人である先生が導く」、これはブルーアーカイブのシナリオでは頻繁に強調されるポイントである。

*2:ゲーム内に実装された際も、瞬間的な爆発力だけで言えば他の追随を全く許さないほど図抜けた単体火力を誇っている。

*3:ゲマトリア」の一員。ゲマトリアはシナリオ全体での黒幕ポジションの一角を占める集団だが、その実態はよく分からない。ミカを考えるうえでは対して重要ではないので、ここでは深く立ち入らないことにする。

*4:一つだけ補足すれば、キヴォトスでは過去に「忘れられた神々」と「名もなき神々」が戦っていたという話がある。これとは別に、神のような概念として「崇高」と「色彩」があるが、これらの概念の詳細は今のところ全く分からない。

三島芳治『衒学始終相談 1』

 前置きとして何か書こうと思ったけれど、特に書くことがなかった。

 

 

 今回の漫画は三島芳治先生の『衒学始終相談』。

 

※本ブログは作品のネタバレを含みます。

 

三島芳治『衒学始終相談 1』白泉社、2023年。
タイトルを打ち込んで変換すると「弦楽四重奏団」と出た。

 

 さて、今作は3月31日に発売したばかりの、ほやほやの新刊だ。

 作者である三島芳治先生は、トーチwebで連載されている『児玉まりあ文学集成』以来、個人的に追っている漫画家の一人でもある。

 何を隠そう、今日私はわざわざこれを買うために書店まで足を運んだほどだ。(御茶ノ水丸善は中規模書店としては並程度の品揃えしかないが、漫画売り場の壁棚をまるまる新刊コーナーにしてくれているのは非常に好感が持てる。新刊コーナーで出会わなければ一生知らないままだった漫画は少なくない。)

 

 心に深く突き刺さったものに対してしばしば人が寡黙であるように、三島作品の何が私を惹き付けているか、説明するのは簡単ではない。

 読まないと分からないから読んでほしい、というのが率直な思いではあるが、それではこのブログの存在意義が揺らいでしまいかねないので、探り探りにはなるだろうが、感想を書いていきたい。

 

 さて、ここでいつもならあらすじの紹介から入るところだが、本作には説明すべきあらすじがほとんどない。

 本作は二人の女性―――国立大学に進学しながらも特に研究テーマをもたず、「モラトリアムな学究意欲だけを持て余して」いる「私」と、何を研究しているのかよく分からないが大学から研究費だけはやたらと下りている「先生」―――によって繰り広げられる、掴みどころのない会話を中心に進行する。

 一応、テーマのようなものはある。人間の心を修復する、「心の復興」だ。

 何を言っているのかよく分からないだろうが、私にも分からない。残念ながら、本作は順序だてて物語を説明したり、腑に落ちるような解釈を施したりすることができる作品ではない―――少なくとも私の能力では。

 普段、物語を整理して解釈するというやり方でブログを書いている身としては非常に厳しいものがあるが、あえてこの困難に挑んでいるのは、それだけ本作を高く評価している証だと思ってほしい。

 

 一つ、私が言語化できる本作の魅力があるとすれば、それは「先生」というキャラクターだ。

 「先生」は人の心が傷ついている世界の現状を解決するために、日々研究に勤しむ研究者である。

 例えば、人の心を希釈し拡散させる薬を開発したり(2話)、米軍が精神薬の材料として捕獲した巨大ウニを調査するために基地に潜入したり(4話)、子どもの内面形成に与える影響を調べるために幼少期の精神世界を破壊する手紙を送ったりする(7話)。研究にかこつけてやりたい放題やっているようにも見えるが、真意は誰にも分からない。

 彼女は助手である「私」のことを高く評価しながらも、開発した薬の実験台に「私」を使うことも躊躇わないし、その結果として破滅的な出来事が起こったとしても構わないと思っている節さえある、やや破綻した人物だ。引き合いに出す理論や学説は眉唾で自己韜晦的だが、一方で「私」に対する自らの感情を「未熟さ無知さへの憧憬、失った良心への感傷」と分析し、それを「自己愛」と呼ぶことのできる、明晰な観察力も兼ね備えている。まさに生粋のマッドサイエンティストと言っていいだろう。

 この「先生」と対峙する「私」もまた、並大抵の人間ではない。

 「私」は「先生」の特権的な地位に目をつけ、彼女に取り入ることでゆくゆくはそのポストに自分が収まろうと画策している、抜け目のない学生だ。「私」は理解不能な「先生」の研究に翻弄されるが、やがて名も知らぬ同輩を実験台に使おうとするなど「先生」のやり方に感化されていく。一方で接近するがゆえに、かえって「先生」との精神的な断絶が浮き彫りになる……。

 この「先生」と「私」、つかず離れずの距離感で行われる空中戦のようなやり取りが、本作の魅力の一つだということはできるだろう。

 

 今の時点で私に言えるのは、せいぜいがこれくらいだ。

 改めて言っておくが、本作は非常に要約の難しい、読まないと分からない作品だ。好みが別れるところなのは間違いないだろうが、私と同じ種類の感性をもった人間には、きっと心の深いところまで刺さると思う。

 幸運なことに、最新話は「楽園web増刊」上で無料で読むことができる。気になったら見てみるのもいいだろう。

 

 

 分かっていたことではあるが、今回は何をどう書けばいいものやら、非常に難航した。その手間の割には短い記事になったが、まあ、頑張った方だとは思う。

 

 

 

 大切なことを言い忘れていた。

 「先生」はかわいい。

小板玲音『エレナの炬火 1』

 先日聖書に関する本を読んでいたら、次のような文句が引かれていた。

 

今なお生きている者たちよりも、既に死んだ人たちを私はたたえる。いや、その両者よりも幸せなのは、まだ生まれていない者たちである。彼らは太陽の下で行われる悪事を見ないで済むのだから。(『コヘレト』第4章)

 

 ところで、私は昔から忘れることのできない聖句がある。

 

生まれなかった方が、その者のためによかった。(『マルコ』第14章)

 

 生が無条件に肯定されない、ということに私はある種の安堵を感じるのかもしれない。

 我々の生きるこの世は、素朴な生の喜びを歌うにはあまりに苦しすぎる。かといって苦しみにどんな答えが与えられるだろう。苦しみの中で何もかもを呪いながら死んでいく人間に(自分がそうでないという保証はどこにもない!)どうやって喜びと愛を説けるだろう? 

 「あなたは救われなかった」とあえて言うことだけでしか、そういう人に対して誠実である手段はないように思われるのだ。

 

 

 そんな前置きと関係があるようなないような、今回の漫画は小板玲音先生の『エレナの炬火』。

 

※本ブログは作品のネタバレを含みます。

 

小板玲音『エレナの炬火 1』KADOKAWA、2023年
掲載誌は「青騎士」。表紙からすでに青騎士らしさがにじみ出ている。

 

 例によって筋書きをまとめるのが苦手なので、オビに書いてあったあらすじを引用する。

 

 体を動かせない重病人や戦争で思いけがをした人たちが集められる施設・紫蘭館で働くことになった猫耳少女・エレナ。16歳のエレナを待ち受けているのは、命の価値が揺らぐ厳しい現実。感情と記憶を失いながら生きる人生。戦火で過去を断ち切れられる悲哀。いまだ戦争の因縁から逃れられない伝説の軍人……。残酷な現実を直視しながら生きることの尊さと生命の可能性を信じるエレナの想いの熱は、いずれ周りの人々に、そして国中に伝わり大きなものになる。深い闇のように先の見えない現実において大きな灯となり、やがて福祉国家を作りあげる偉人、エレナの伝記譚。

 

 舞台は北方の小国・ノルド共和国。隣国のヴァストク連邦から侵略を受けて奮闘空しく敗戦し、復興へと一心不乱に向かう中で、戦傷病者やその関係者をケアする福祉施設で働くエレナという人物が主人公になる。

 

 設定的には明らかに北欧とロシア(「ヴォストーク」はロシア語で「東」を意味する)がイメージされるし、ノルド共和国がのちに「福祉国家」になると明言されていることからも間違いなさそうだが、寡聞にして北欧諸国の歴史上にエレナにあたるような人物を知らない。別に実在の人物をモデルにした作品というわけでもないのだろうか。誰か知っている人がいたら教えてほしい。

 

 さて、主人公であるエレナは、猫耳と猫尻尾をもった獣人風味の女の子だ。

 なぜ猫なのかは分からない。作中には猫耳をもつ登場人物が他にも複数いるし(男性含む)、猫耳のない人々が違和感を覚えているような描写もない。

 ただ、作中ではある人物が猫耳を見て「あの戦争の前線の出身」と発言するシーンがある。猫耳はある特定の地域出身であることを示すもので、それが何らかのコンテクストを伴っているとはいえる。その辺りは今後明らかになっていくのだろう。

(余談だが、エレナは自分の尻尾が他の人よりも少し長いことを気にしている描写がある。また、エレナの友人にサナという猫耳の少女がいるのだが、二人が仲睦まじげに尻尾を絡めあうシーンもある。この辺りには作者の性癖を感じた。)

 

 あらすじにもある通り、エレナはどんな状況にあっても生きることの尊さを信じ、それを守り慈しむことに全力を注ぐ、仕事熱心なケアワーカーだ。

 多くのケアワーカーがそうであるように、エレナもまた経験不足から見立てを誤ったり、頑張りすぎるあまり自らを追い込んだりする危なっかしい一面がある。しかし彼女は決して、自らの信念を曲げはしない。

 

 なお、個人的には、生きるか死ぬか、なぜ生きるかどう生きるか、という人生に深くかかわる問題に立ち向かうとき、本人以外の人間が関与できる部分はほとんどないと思っている。

 ただそれは極論「一人で死ね」と言っているのと同義であって、まさに私はそう言いたいのだが、そうは考えない人も多くいるということ(あるいはその方が多数派でさえあること)も理解している。エレナはまさしく、死にゆく人の手を握る人なのだろう。

 

エレナが答えなければいけない問い

 この漫画の冒頭には、8ページにわたってプロローグが描かれる。

 プロローグでは作品の舞台や社会情勢、主人公の属性や物語の目指すところなどが簡単に説明される。このプロローグ自体はいかにも説明的というか、さほど作劇的な効果をもっているとは思われないが、この中で提示されている中で1巻ではほとんど取り扱われていないテーマがある。

 すなわち、「福祉をどれだけ国が負担すべきか」という問題だ。

 あらすじに書かれた通り、ノルド共和国は敗戦国であり、厳しい国際情勢のなかで戦後復興の道をいざ邁進せんとする国である。そのような国で、生活に全介助を必要とするような傷病者や、意志疎通さえままならない精神失調者の面倒をどれだけ見ていられるのかという問題は避けて通れない。

 これは現代日本においても、全く他人ごとではない問題といえる。年々増大する社会保障費が日本の財政を圧迫していることは事実であって、今さらやまゆり園事件などを引き合いに出すまでもなく、長期的な人口減少という(見ようによっては戦後復興よりも根の深い)国難を前に、高齢者福祉にどれだけのリソースを割くべきかという問題は、今後のこの国に長く付きまとう問題になるだろう。

 

 もちろん、これはもはやエレナ個人の範疇に収まる問題ではない。

 エレナが人の生の尊さを叫ぶとき、その相手にもまた生の輝きがあるのだ。限られたリソースをどう配分するか―――配分の場をどのようなイデオロギーが支配するのか。これはもはや政治の領域だ。

 

 そしてその場でエレナが何かしら決定的な役割を果たすとき、エレナは自分の個人的体験を越えた、普遍性のある価値を提示する必要に迫られることになる。それは口で言うほど簡単なことではないが、果たしてエレナはこの難問に答えを出すことができるのだろうか。

 1巻を読んだ感想としては、エレナがこのような英雄的人物の器だとは、私には残念ながら感じられなかった。

 

 一つ例を挙げよう。作中、エレナが担当するクライエントとしてヘンリッカという名の女性が登場する。このヘンリッカにまつわる話は作品の冒頭に位置するエピソードで、エレナの基本的な姿勢や考え方を示すものと言っていいだろう。

 ヘンリッカは過労や不安に精神をすり減らし、そのうえ戦争で最愛の夫を亡くしたことで、深い絶望の中に沈み込んでしまった人物だ。エレナは何とかしてヘンリッカを元気づけようとするが、それがかえって彼女のトラウマを刺激してしまう。エレナは自分の行いを省みて次のように独白する。

 

私、勝手にいいことをした気分になってた

自分がいいと思うことを押し付けてた

どんな絶望があったのかも知らないで ただ心をかき乱すような真似をして

思い上がってたんだと思う

(中略)

大事なものを何もかも手放し続けて それで終わる人生なんてさみしすぎるよ

救えないから無関心でいろだなんて… もっとさみしいよ

それでも生きられて… 生きていてよかったんだって そう思っていてほしいよ

私の思い上がりだったとしても もう諦めてほしくないから

 

 この直前、エレナは彼女の働く福祉施設の館長に、一つの問いを投げかけられる。これも重要だと思うので引用しておこう。

 

私はあえて酷い言い方をします

この方々は何のために生きていると思いますか

彼らは政府の戦後保障で生きていますが 社会に戻ることもできず 復興を支えるわけでもなく

ただここで死を待つように生きている

何も世界への反応を示さない方に たましいはあるのでしょうか

世話に対し無為や怒り…錯乱する方に 優しさや気遣いを向ける意味はあるでしょうか

生きることに自ら意味を見出せない彼らが 絶望の中で生き続けていくことに

どんな意味があると思いますか

 

 館長はエレナと対照的に人々に対し冷淡な態度を取っているように見えるが、決して無関心というわけではない。むしろ、苦しみや絶望を抱える人々に自分は「寄り添えない」ことを自覚している、非常に誠実な人物のように映る。

 それに対してエレナは、自分が「いいことをした気分になってた」と認めながらも、「生きていてよかったんだって そう思っていてほしい」と涙を流しながら言う。

 

 ちなみに、私が冷酷な人間だと誤解されるのも本意でないので一応言っておくが、私はエレナのこの台詞には確かな重みがあると思う。苦しみの中においてさえ、生きることを肯定しようとする意志、あるいは肯定せずにはいられない信念、そういうものを貫こうとする姿勢には好感をもった。事実、その意思ないし信念が、ヘンリッカの凍てついた心を融かしていくのだ。

 

 だが、話を戻すが、エレナが普遍的な価値を訴えるためには、それだけでは足りない。

 救うことのできない人間を目の前に、エレナが彼らのために涙を流すとしても、その涙によって幾分か慰められる魂があるのだとしても、それだけでは足りないのだ。

 館長が厳しい言葉で投げかけた、「彼らが何のために生きているのか」「彼らの生にどんな意味があるのか」という問いに答えなければいけない。それは彼女自身の意思や信念というよりも、社会的・政治的課題としてだ。これは2巻以降に残された課題になるだろう。

 

 少々冷めた見方をすると、この問いにエレナが正面から答える日は来ないかもしれない。

 プロローグなどを読む限り、エレナはただ自らの信じる価値を抱いて走り、そのひたむきな姿によって多くの人々の心を動かす―――そんなある種牧歌的な物語であるような気がしないでもない。

 

 そういう真っすぐで不器用な主人公は嫌いではないのでそれはそれで、と思いつつ、この時代にこの国でこの漫画を世に出すからには、エレナの「答え」を聞いてみたいとも思うのだ。