小板玲音『エレナの炬火 1』

 先日聖書に関する本を読んでいたら、次のような文句が引かれていた。

 

今なお生きている者たちよりも、既に死んだ人たちを私はたたえる。いや、その両者よりも幸せなのは、まだ生まれていない者たちである。彼らは太陽の下で行われる悪事を見ないで済むのだから。(『コヘレト』第4章)

 

 ところで、私は昔から忘れることのできない聖句がある。

 

生まれなかった方が、その者のためによかった。(『マルコ』第14章)

 

 生が無条件に肯定されない、ということに私はある種の安堵を感じるのかもしれない。

 我々の生きるこの世は、素朴な生の喜びを歌うにはあまりに苦しすぎる。かといって苦しみにどんな答えが与えられるだろう。苦しみの中で何もかもを呪いながら死んでいく人間に(自分がそうでないという保証はどこにもない!)どうやって喜びと愛を説けるだろう? 

 「あなたは救われなかった」とあえて言うことだけでしか、そういう人に対して誠実である手段はないように思われるのだ。

 

 

 そんな前置きと関係があるようなないような、今回の漫画は小板玲音先生の『エレナの炬火』。

 

※本ブログは作品のネタバレを含みます。

 

小板玲音『エレナの炬火 1』KADOKAWA、2023年
掲載誌は「青騎士」。表紙からすでに青騎士らしさがにじみ出ている。

 

 例によって筋書きをまとめるのが苦手なので、オビに書いてあったあらすじを引用する。

 

 体を動かせない重病人や戦争で思いけがをした人たちが集められる施設・紫蘭館で働くことになった猫耳少女・エレナ。16歳のエレナを待ち受けているのは、命の価値が揺らぐ厳しい現実。感情と記憶を失いながら生きる人生。戦火で過去を断ち切れられる悲哀。いまだ戦争の因縁から逃れられない伝説の軍人……。残酷な現実を直視しながら生きることの尊さと生命の可能性を信じるエレナの想いの熱は、いずれ周りの人々に、そして国中に伝わり大きなものになる。深い闇のように先の見えない現実において大きな灯となり、やがて福祉国家を作りあげる偉人、エレナの伝記譚。

 

 舞台は北方の小国・ノルド共和国。隣国のヴァストク連邦から侵略を受けて奮闘空しく敗戦し、復興へと一心不乱に向かう中で、戦傷病者やその関係者をケアする福祉施設で働くエレナという人物が主人公になる。

 

 設定的には明らかに北欧とロシア(「ヴォストーク」はロシア語で「東」を意味する)がイメージされるし、ノルド共和国がのちに「福祉国家」になると明言されていることからも間違いなさそうだが、寡聞にして北欧諸国の歴史上にエレナにあたるような人物を知らない。別に実在の人物をモデルにした作品というわけでもないのだろうか。誰か知っている人がいたら教えてほしい。

 

 さて、主人公であるエレナは、猫耳と猫尻尾をもった獣人風味の女の子だ。

 なぜ猫なのかは分からない。作中には猫耳をもつ登場人物が他にも複数いるし(男性含む)、猫耳のない人々が違和感を覚えているような描写もない。

 ただ、作中ではある人物が猫耳を見て「あの戦争の前線の出身」と発言するシーンがある。猫耳はある特定の地域出身であることを示すもので、それが何らかのコンテクストを伴っているとはいえる。その辺りは今後明らかになっていくのだろう。

(余談だが、エレナは自分の尻尾が他の人よりも少し長いことを気にしている描写がある。また、エレナの友人にサナという猫耳の少女がいるのだが、二人が仲睦まじげに尻尾を絡めあうシーンもある。この辺りには作者の性癖を感じた。)

 

 あらすじにもある通り、エレナはどんな状況にあっても生きることの尊さを信じ、それを守り慈しむことに全力を注ぐ、仕事熱心なケアワーカーだ。

 多くのケアワーカーがそうであるように、エレナもまた経験不足から見立てを誤ったり、頑張りすぎるあまり自らを追い込んだりする危なっかしい一面がある。しかし彼女は決して、自らの信念を曲げはしない。

 

 なお、個人的には、生きるか死ぬか、なぜ生きるかどう生きるか、という人生に深くかかわる問題に立ち向かうとき、本人以外の人間が関与できる部分はほとんどないと思っている。

 ただそれは極論「一人で死ね」と言っているのと同義であって、まさに私はそう言いたいのだが、そうは考えない人も多くいるということ(あるいはその方が多数派でさえあること)も理解している。エレナはまさしく、死にゆく人の手を握る人なのだろう。

 

エレナが答えなければいけない問い

 この漫画の冒頭には、8ページにわたってプロローグが描かれる。

 プロローグでは作品の舞台や社会情勢、主人公の属性や物語の目指すところなどが簡単に説明される。このプロローグ自体はいかにも説明的というか、さほど作劇的な効果をもっているとは思われないが、この中で提示されている中で1巻ではほとんど取り扱われていないテーマがある。

 すなわち、「福祉をどれだけ国が負担すべきか」という問題だ。

 あらすじに書かれた通り、ノルド共和国は敗戦国であり、厳しい国際情勢のなかで戦後復興の道をいざ邁進せんとする国である。そのような国で、生活に全介助を必要とするような傷病者や、意志疎通さえままならない精神失調者の面倒をどれだけ見ていられるのかという問題は避けて通れない。

 これは現代日本においても、全く他人ごとではない問題といえる。年々増大する社会保障費が日本の財政を圧迫していることは事実であって、今さらやまゆり園事件などを引き合いに出すまでもなく、長期的な人口減少という(見ようによっては戦後復興よりも根の深い)国難を前に、高齢者福祉にどれだけのリソースを割くべきかという問題は、今後のこの国に長く付きまとう問題になるだろう。

 

 もちろん、これはもはやエレナ個人の範疇に収まる問題ではない。

 エレナが人の生の尊さを叫ぶとき、その相手にもまた生の輝きがあるのだ。限られたリソースをどう配分するか―――配分の場をどのようなイデオロギーが支配するのか。これはもはや政治の領域だ。

 

 そしてその場でエレナが何かしら決定的な役割を果たすとき、エレナは自分の個人的体験を越えた、普遍性のある価値を提示する必要に迫られることになる。それは口で言うほど簡単なことではないが、果たしてエレナはこの難問に答えを出すことができるのだろうか。

 1巻を読んだ感想としては、エレナがこのような英雄的人物の器だとは、私には残念ながら感じられなかった。

 

 一つ例を挙げよう。作中、エレナが担当するクライエントとしてヘンリッカという名の女性が登場する。このヘンリッカにまつわる話は作品の冒頭に位置するエピソードで、エレナの基本的な姿勢や考え方を示すものと言っていいだろう。

 ヘンリッカは過労や不安に精神をすり減らし、そのうえ戦争で最愛の夫を亡くしたことで、深い絶望の中に沈み込んでしまった人物だ。エレナは何とかしてヘンリッカを元気づけようとするが、それがかえって彼女のトラウマを刺激してしまう。エレナは自分の行いを省みて次のように独白する。

 

私、勝手にいいことをした気分になってた

自分がいいと思うことを押し付けてた

どんな絶望があったのかも知らないで ただ心をかき乱すような真似をして

思い上がってたんだと思う

(中略)

大事なものを何もかも手放し続けて それで終わる人生なんてさみしすぎるよ

救えないから無関心でいろだなんて… もっとさみしいよ

それでも生きられて… 生きていてよかったんだって そう思っていてほしいよ

私の思い上がりだったとしても もう諦めてほしくないから

 

 この直前、エレナは彼女の働く福祉施設の館長に、一つの問いを投げかけられる。これも重要だと思うので引用しておこう。

 

私はあえて酷い言い方をします

この方々は何のために生きていると思いますか

彼らは政府の戦後保障で生きていますが 社会に戻ることもできず 復興を支えるわけでもなく

ただここで死を待つように生きている

何も世界への反応を示さない方に たましいはあるのでしょうか

世話に対し無為や怒り…錯乱する方に 優しさや気遣いを向ける意味はあるでしょうか

生きることに自ら意味を見出せない彼らが 絶望の中で生き続けていくことに

どんな意味があると思いますか

 

 館長はエレナと対照的に人々に対し冷淡な態度を取っているように見えるが、決して無関心というわけではない。むしろ、苦しみや絶望を抱える人々に自分は「寄り添えない」ことを自覚している、非常に誠実な人物のように映る。

 それに対してエレナは、自分が「いいことをした気分になってた」と認めながらも、「生きていてよかったんだって そう思っていてほしい」と涙を流しながら言う。

 

 ちなみに、私が冷酷な人間だと誤解されるのも本意でないので一応言っておくが、私はエレナのこの台詞には確かな重みがあると思う。苦しみの中においてさえ、生きることを肯定しようとする意志、あるいは肯定せずにはいられない信念、そういうものを貫こうとする姿勢には好感をもった。事実、その意思ないし信念が、ヘンリッカの凍てついた心を融かしていくのだ。

 

 だが、話を戻すが、エレナが普遍的な価値を訴えるためには、それだけでは足りない。

 救うことのできない人間を目の前に、エレナが彼らのために涙を流すとしても、その涙によって幾分か慰められる魂があるのだとしても、それだけでは足りないのだ。

 館長が厳しい言葉で投げかけた、「彼らが何のために生きているのか」「彼らの生にどんな意味があるのか」という問いに答えなければいけない。それは彼女自身の意思や信念というよりも、社会的・政治的課題としてだ。これは2巻以降に残された課題になるだろう。

 

 少々冷めた見方をすると、この問いにエレナが正面から答える日は来ないかもしれない。

 プロローグなどを読む限り、エレナはただ自らの信じる価値を抱いて走り、そのひたむきな姿によって多くの人々の心を動かす―――そんなある種牧歌的な物語であるような気がしないでもない。

 

 そういう真っすぐで不器用な主人公は嫌いではないのでそれはそれで、と思いつつ、この時代にこの国でこの漫画を世に出すからには、エレナの「答え」を聞いてみたいとも思うのだ。