最近、といっても年明けから1か月ほどだが、マッチングアプリを使っていた。
私は自他ともに認める「無縁な」人間で、共学高校(男女比が厳密に1:1であり、なんと隣同士の男女が机をくっつけて授業を受けていた!)で3年間を過ごしながら、異性生徒の顔と名前を一人も覚えていないほどだ。念のため断っておくと、同性なら顔くらいは分かる。
このような私だが、結婚願望だけはある。というより、「結婚して子供をもってはじめて一人前」という前時代的価値観に似たものをもっている。人口の再生産を担わずにいることは社会のフリーライダーであることを意味するからだ。
しかし私の性質を考えれば、このままのらりくらりとしていたら何もせずにお手遅れになってお終いになるのが目に見えている。年齢的にもそろそろ焦って妥協し始める人も増える頃合いだろうし、これを機にいっちょ取り組んでみよう、と思い立ったのが今年の初め。その結果うまくいかなければ言い訳になるし、もちろんうまくいけばそれでいい。
そうしてマッチングアプリに登録し、ネットに書いてあるノウハウに従っていいねを送ったりメッセージをやり取りしたりしていたのだが、1か月を迎えたところで無事モチベーションが尽きたというわけだ。
成果としては失敗というほかないが、予想外に得るものはあった。いや、学びがあった。
それは、真に困難なのは愛されることではなく愛することだ、ということである。
ぶっちゃけ、私は私にしか興味がない。したがって当然に、まず相手が私に興味を示してくれなければ私も興味をもつことができない。アプリ画面には興味ない人間の顔写真とプロフィールが並んでいて、さながら知らない料理名しかないメニュー表のようなものだ。この中から選べと言われても……ねぇ?
だがやると決めたからにはやるしかない。「しょ~もね~」と思いながら、時には実際にそう呟きながら、さらに時にはあまりのしょうもなさに頭痛さえ感じながら、「興味がある」のハードルを限界まで下げて興味をもてそうな人を探す。
そうやって何とか興味がある振りをしていいねやメッセージを送ると、意外にもそれなりにマッチングしたのである。たかがマッチングしただけで何を大げさなと思われるかもしれないが、これまで異性に興味を示される経験がゼロであった身としては、そもそも自分が「対象」に入るということ自体が純粋な驚きであった。
正直に言えば、当初に想定した「最もありえそうなシナリオ」は「手を出してみたはいいものの誰ともマッチングせずに終わる」だった。そのため、実際にやり取りをする心の準備まではしておらず、「頼むから返信は来ないでくれ……!」と願いながらメッセージを打つ羽目になった。(幸い(?)結局やり取りは長続きせず、実際に会うことなどもなかった。)
とはいえ、こちらが(少なくとも見かけ上)真剣に興味がある態度を示せば、向こうからも悪しからぬ反応が返ってくることは大きな学びであった。これまで私に浮いた話がなかったのは単に私に恋愛市場的な価値がないからだと思っていたが(別にそれ自体は間違っていないだろうが)、私が人を愛してこなかったからかもしれない。*1
もしここまで読んでいる忍耐強い読者がいれば、なんとガキくさい話をしているのかと呆れ果てているころだろう。この程度の恋愛観は中高生のうちに身につけておくべきだ、今さらそんな仰々しく語るようなことではない、まことにごもっとも。
周回遅れの学びではあろうが、恐らくこのような機会がなければ私は一生知らないままでいたに違いない。そういう意味で、非常に神経はすり減ったが有意義な経験だった。もう二度とやらないと思う。
余談が長くなった。今回の漫画は鯨庭先生の『言葉の獣』。
本作はトーチwebで連載中の漫画で、私の持っている1巻が発売後9か月で第3刷なので、そこそこ人気があるようだ。
「言葉の獣」を見るという異能をもつ少女・東雲と、詩に情熱を注ぐ文学少女・薬研。この二人が「言葉の獣」が住む「生息地」でさまざまな「言葉の獣」を探し、その在りようを見つめていく。
……というのが、本編のあらすじなのだが、いくつかの用語には説明が必要だろう。
表題にもなっている「言葉の獣」は、文字通り、言葉が獣の形をとったものだ。東雲にのみ見ることができ、彼女曰く「生まれつきの共感覚ってやつ」らしい。姿は実在する動物であったりそうでなかったりするが、おおむね哺乳類から爬虫類までの範疇に収まっている。東雲は目にした「獣」の姿をスケッチブックに描きとめており、「この世で一番美しい言葉の獣」を見つけることを目標にしている。
東雲には「獣」が日常生活の中で見えているが、薬研はそのスケッチを通してしか見ることができない。だが、「生息地」と呼ばれる鬱蒼とした森のような場所の中では、薬研にも直接見ることができるようになる(代わりに、薬研は虎の姿になってしまう)。「生息地」は「獣」たちの住む別世界で、東雲をはじめとした特別な適性をもった人間だけが入ることができる、日常空間と隔絶された(しかし地続きな)空間だ。
物語は専ら、この「生息地」で出会う「言葉の獣」たちと向き合い考えながら進行することになる。
さて、あらすじを紹介したところで、本作のメインテーマの設定に移ろう。
と言いたいところだが、私が思うに、この漫画には私が言うような意味でのテーマは存在しない。本作は普通のストーリー仕立ての体裁をなしつつ、実態としてはむしろエッセイに近いものではないかと思われる。
先ほど本作に特有の概念を整理してみたが、それらはしばしば輪郭があいまいだ。
たとえば、本作の最序盤には次のような東雲の台詞がある。
言葉ってなんだと思う?
例えばさ、みんなが「かゆい」と呼んでいる感覚が、自分には「くすぐったい」かもしれないって考えたことはないかい?
私はそういう『疑問』を感じたことがないんだ
私にはずっと言葉の形が見えてたからね
人は気持ちをより正しく伝えるために言葉を使う
でもそれは
無意識のうちに刷り込まれてきた言葉に、意味を押し込めているだけに過ぎないんだよ
私は言葉で示そうとした気持ちそのものがわかるんだ
他者の気持ちは絶対にわからない
私はわかるけどね
言語哲学や心の哲学に近い話をしているようにも見えるが、これをそういった文脈で検討するには私はあまりに勉強が足りていない。
ここで着目したいのは、東雲は「言葉で示そうとした気持ちそのものがわかる」と言っていることだ。
発された言葉とその発話に込められた気持ちは必ずしも一致しない、という前提に立てば、東雲に見えているのは言葉ではなく本心、つまり「かゆい」という言葉ではなく、「かゆい」と感じる心だ。これを素直に解釈するならば、これは「言葉の獣」ではなく「心の獣」と呼称すべきではないのか。
その例として、作中で最初にクローズアップされる「獣」を見てみよう。
問題の「獣」は、薬研が詩に対して不真面目なクラスメイト達に憤り、その気持ちを国語教師にぶつけた時に言われた「頑張れ」という言葉の「獣」である。
これだ。
そしてこちらが、辞書的な意味での「頑張れの獣」である。
両者が全く別物であることは明らかだ。
これらの「獣」の姿や振る舞いを観察することで、東雲たちは「獣」の本質を見極めていく。
たとえば、辞書的な意味での「頑張れの獣」は、長い首で対象者を見守りながら、慰めや励ましのために抱きしめたりする。一方で、薬研にとっての「頑張れの獣」は、遠巻きに眺めるだけで何もしてくれない。薬研にとっての「頑張れ」とは、傍に寄り添い励ましてくれる言葉というよりも、「私には助けてあげられない」という冷酷な突き放しであった。
だとすれば、薬研にとっての「頑張れの獣」はもはや「頑張れの獣」ではなく、「助けられないの獣」と呼ぶべきではないか。
姿も性質も異なる、モチーフとなったであろう動物さえ異なる二つの獣を、同じ「言葉」のもとに名付けなければいけない理由はどこにあるのだろうか?
これは別に解決困難な問いというわけではない。
たとえば、言葉には音と意味という2つの要素があるが、これが辞書的定義に従って一対一で対応すると考える必要はない。実のところ、「かゆい」という言葉を「痛い」という意味で使っても、「気持ちいい」という意味で使っても構わないのだ。重要なのは、ある特定の状況下でそれが何を意味するか、どう理解されるかだ。
現に、そういう風に解釈できないこともないセリフもある。
君は 面白い言葉の見方をする
言葉には意味そのものは含まれていないことがよく分かってる
これは前述の「頑張れの獣」のエピソードがひと段落着いたところで東雲が発したセリフだ。言葉はそれ単体で意味をもつものではなく、脈絡と文意によってはじめて意味をなす、という意味だろうか。
今、私は試しに一つの回答の可能性を示してみたが、当然ながらこれが唯一の解決というわけではない。
第一、文脈原理に則るならばそもそも「頑張れの獣」などと文脈から単語を切り出してくること自体が問題含みであろう。また、ここで全てを取り上げるようなことはしないが、本作にはこの論理では説明できないエピソードが次々に登場する。
さて、では本作ではこの問題にどのような回答が用意されているのだろうか。
私の読むところでは、本作にはその回答が用意されていない。むしろ、本作は「言葉の獣」という表象を通して、「言葉」の形式と意義について考えていくものであるようにさえ思われるのだ。
本作の中で、東雲と薬研の目的は一ではない。
東雲の目的は、「この世で一番美しい言葉の獣」を見つけること。ここでも「美しい言葉の獣」と「美しいの獣」は何がどう違うのかという問題が生じるが、それはいったん棚上げしよう。東雲はかつて谷川俊太郎の「生きる」を読んだときに見た美しい「獣」のことを忘れられず、美しい「言葉の獣」を探している。
一方、薬研の目的は、「言葉の獣や生息地が一体何なのか」知ることだ。これは今回私が問題提起した部分に重なってくるだろう。しかし薬研は好奇心とある種の興奮に突き動かされている節があり、この目的はあくまでも最終目標として捉えられているようだ。
では、このような二人の登場人物が織りなしていくストーリーは、いったいどこを目的地としているのだろう。ここからは私の勝手な推測の割合が増してくるが、本作はそれを用意できていないのではないだろうか。問いも、したがって当然答えも、まだどこにもない。
というのは、どうにも答えに近づいている感触がないというか、雲をつかむような話が続いているように感じるからだ。もしあらかじめ辿り着くべき答えが用意されているのならば、伏線を張るなり、説得力をもたせるために段階的に理路を筋立てていくような工夫があってしかるべきだろう。
だが本作では、そういった志向性が希薄である。
2巻の後半では、「記録媒体としての言葉」という側面から、東雲と薬研の「記憶(されること)」の意味について、そして薬研の感じる「忘却=死への恐怖」へと主題が移っていく。これ自体は私にとってはそれなりに興味のあるテーマだが、「言葉の獣とは何か」という(薬研の)目的からはかなり遠ざかっている感が否めないだろう。*2
私が冒頭で「むしろエッセイに近い」と書いたのはこういう意味だ。
本作は明確なテーマが設定され、その回答へ向けて意識的に構成されたものではなく、「言葉の獣」というモチーフのもとである意味自由に、まとまらないままの考えを広げるようなものとして描かれているように思われる。東雲が求める「言葉の美しさ」、あるいは薬研の追及する「言葉とは何か」という問いは、そのなかに建てられた一つのランドマークに過ぎない。
個人的には「今何が問題になっているか」がはっきりしている方が好みなので、こういうタイプの漫画は読むのに(そして感想を書くのに)体力を必要とする。
しかし、しばしば結末ではなくそこに至る道のりの方が重要であるように、自分の思考する過程を描くという行為には、結論から逆算された語りとは違った意味があるだろう。
最近常々思うことだが、世の中には大量の漫画が溢れていて、自分が読む漫画には内容以前の「好みっぽいかどうか」というふるいがかけられている。このふるいの目は想像以上に粗く、私が意識にもあげずにふるい落としているものは私が思うよりはるかに膨大であるに違いない。
それは悪いことではなく、有限の時間と処理能力のなかを生きる我々にとって必要不可欠であるにせよ、それで自分にとって読むべき漫画が見逃してしまうとすれば悲しいことに違いない。
久しぶりに感想を書いたので何だか締め方が分からなくなってしまった。未完の漫画なので感想も尻切れ蜻蛉で許される、ということにならないだろうか。