『ムーランルージュ』という舞台を観てきた。帝劇で観劇したのは初めてだったので、なかなか新鮮な体験だった。
特にカーテンコールがとてもよかった。野郎どものラインダンスは楽しくていい。
さて、今回の漫画は町田洋先生の「砂の都」。
作者の町田洋先生は、もともと個人サイト出身の作家だ。
2013年に全編描き下ろしで『惑星9の休日』を刊行して商業デビューし、続けて2014年に個人サイト時代の作品を含めた初期作品集『夜とコンクリート』を世に出した。その後モーニングツーで連載を開始したものの、数年間休載するなど活動は不定期だった。
今作『砂の都』は、ファン待望の新刊ということになる。
私は、数年前に『惑星9の休日』を読んだきり、熱心に動向を追っていたというわけではない(3年前にトーチwebで短編を書いていたことも、今回改めて調べて初めて知った)。
だが、やはり今回の作品を読んでみて思うのは、町田洋は私の「好きな作家」の一人に数えうるということだ。
あらすじ
今作は、形式としては短編集の趣ではあるが、全編がある一つの大きなストーリーを構成している。おおまかなストーリーは次のようなものだ。
主人公は、砂漠の中を移動する「丘」の上にある町に住んでいる。
この町には「人の記憶を建てる」という特殊な現象が起こる。町に住む人々の記憶や思い出から、建物が勝手に再現されて建ち、そうして建った建物は、人が住まなくなってしばらくすると自然に崩れるようになっていた。
主人公はこの町で、カメラ修理店のバイトをしたり、顔なじみの友人や町に住む愛想のない少女と交流したりして、平凡な日常を過ごしていた。
いつまでもこんな日々が続くと思っていた日常は、少しずつ綻んでいく。
建物が崩壊するペースが速まり、逆に新しく建つ頻度が減っていった。やがて崩れないはずの人が住む家が崩れる事件まで起こり、主人公は建築の勉強をするために町を出ることを決意する。
8年後、「町」に戻って来た主人公が見たのは、建物がすべてなくなり更地になった「丘」だった。砂漠をさまよう「丘」は海へと進路を取り、海に飲まれて消える日に立ち会おうとかつての住人たちが集まってきていた。
「丘」がとうとう海に崩れ落ちようとするとき、「丘」は最後の輝きのように、今まで建ててきた建物の姿を現す。主人公は、かつてこの町で時間を過ごし、かつて伝えられないままだった少女への想いを伝えるために走り出す……。
砂漠の中を移動する「丘」と、人の記憶を建てる「町」。これらが何なのかは結局明らかにならないが、町田洋はこういう「すこしふしぎ」を描くのが上手い。描きたいテーマのための舞台を設定するのが巧みだと言うべきか。
少し遠回りにはなるが、私が町田洋に見出しているある特徴について整理したい。
それが、「今を見つめる視点」だ。
時間を遡り、過去の作品群に目を向けよう。
『夜とコンクリート』所収の「発泡酒」には、次のような台詞がある。
友人のあの言葉はあの時代の友人の真実だった
俺のあの気持ちはあの時代のおれの真実だった
この短編は非常に短く、たった8ページしかない。描かれている主題も明確なので、ほとんど誤読の可能性がないという意味で、このテーマを強調するのにふさわしいだろう。
19歳の時、大学の友人が深夜の公園で言い放った「音楽を作ることは俺のすべてだ」という言葉に感動した「俺」は、久しぶりの同窓会で再会した友人に今も音楽をしているかと聞く。友人は「そんなこともやってたな」と言い、「俺」は密かに悲しみを感じるが、それでも、と上に引用した台詞が導かれる。
結果的に裏切られてしまった言葉を、その裏切りに傷つきながらも、なお「あの時代の真実」であったと認める態度。
ここには通時的な視点を排し、その瞬間だけを捉えようとする視線がある。
また、同じく『夜とコンクリート』所収の「青いサイダー」にも同様の視線を見出せる。こちらは先ほどよりも長めのエピソードなので、寄り道が長くなってしまうが、あらすじから紹介したい。
主人公は、「シマさん」という無人島の姿をしたイマジナリーフレンドをもつ少年だ(作中からは性別は分からないのだが、「主人公」という呼称を何度も使い回すと混乱を招く可能性があるので、少年と呼ぶことにする)。
少年は内向的な性格で、シングルマザーである母親は仕事に忙しくなかなか少年と向き合う時間が取れていない。一方で、シマさんも次第に返事が返ってくる頻度が少なくなり、少年は孤独感を募らせていた。
そんなある日、少年はマンションの屋上で何処かを見つめている男に出会う。彼は屋上で物思いにふける姿が瞑想する仙人のようだということで「センニン」と呼ばれ、次第に少年と心を通わせていくことになる。
実は、このセンニンは自分の思い描いたイメージを他人に見せることができる特殊能力をもっていて、シマさんは彼が少年に見せていた幻であった。シマさんの出現頻度が落ちているのは、センニンが病によって寿命を迎えようとしているからだった。
命が尽きようとする間際、センニンは少年に真実を告げ、少年は「あなたとあの島ですごせて幸せだった」と答える。
物語の中では、「大人になる」ということがたびたび言及される。
シマさんは少年に「君が"大人"になるまではそばにいよう」と言い、少年はそれに対して「シマさんといられるなら別に大きくなんてなりたくないんだ」と言う。
さらに、少年はこうも言う。
大人って何でもできるね
校区の外のどこへでも一人で出かけられたり、決まった給食じゃないものが食べられたり、
僕が真剣に考えていることを、見もせずに投げ捨てたりできるんだ
これは、今まで自分の胸の内にしまっていたシマさんのことが母親に知られてしまった時のことを受けた台詞だ。母親はシマさんのことを単なる空想と断じ、一顧だにしなかった。
とはいえ、母親が特別冷淡な人間というわけではないだろう。「無人島の姿をした形而上の話し相手」なる存在を受け入れることは、まともな社会生活を送っている大人には容易ではない。
そして子供自身にとっても、幼い時分に抱いた心の友と寄り添い続けることは難しい。イマジナリーフレンドは大抵の場合児童期のうちに自然に消滅するもので、魔法が解けてしまった後には文字通りただの空想になってしまうはずのものだ。
だが、ここではまさに、そういった未来を見通したような視線こそが批判されているのだ。
大人の目線から見ればやがて打ち捨てられてしまうだろうものが、子どもの目線からは「真剣に考え」るに値するものなのである。ある一時期にしか意味をなさないという事実は、まさにその時を生きる本人にとっては何らその価値を減じるものではない。
これも「今も見つめる視線」のひとつの形と言えるだろう。
今、町田洋作品にみられる「今を見つめる視線」について、二つ例を挙げて見てみた。
これ以外にもいくつか同様の指摘をすることはできる箇所があるのだが、脱線ばかりになっても帰り路を見失うだけなので、そろそろ本筋に戻ろう。
本作『砂の都』にも、「今も見つめる視線」がある。それどころか、その視線はさらに先鋭化して、「今を永遠にする視線」とでも言うべきものを見出すことさえできるのだ。
まず舞台設定からしてそう言える。
第3話「銀国」では、老衰で死んだ老人の記憶から、既に取り壊された首都の野外コンサートホールが再現される。老人はかつてチェロの名手であったようで、葬式のために駆け付けた楽団の一行は再現されたコンサートホールでかつての名演に思いを馳せ、もう一度かつてと同じ構成で演奏する。
第4話「迷路」では、住民の一人がかつて初デートの際に訪れたという巨大迷路が出現する。このエピソードのラストで、主人公は少女と迷路を歩くシーンがあり、これは記憶のもとになったという「初デート」の再演という見方もできよう。
このように、町には、過去のある一点を建物という形で現在に再現・固定化するという機能がある。
主人公は、一瞬を切り出して永遠にする町の力を強く内面化していて、「今」の日常の永遠性を信じている。あるいは信じようとしている。
俺たちが、本当に年を取るのだろうか?
だが、そのような淡い希望を打ち砕くように、町に起こる出来事はすべてが移り変わり過去になっていくということを突きつける。
ヒロインにあたる少女は、小説家として町を出ていった姉に憧れを抱き、自らも小説家を志している。だが、久々に帰省してきた姉は結婚によりかつての激情を失っていた。姉は「もう物語に興味が持てない」と言い、小説を書くことも辞めてしまっていた。
私たちも あと何年もして色々な状況が変わったら
みんな忘れてしまうのかしら 今の気持ちを何もかも
悄然とする少女に、主人公は建築の勉強をするために町を出ることを打ち明け、そして励ますように言う。
俺は変わらないよ
ここに戻って来さえすればみんな元通りだ
今を永遠にしようとする視線と、それでも否応なしに変わっていく有様を見つめる視線。この二つが主人公と少女という二人の若者の中で交差している。
そして、最後には無慈悲な変化の波がすべてさらい、「町」は消えてなくなり、丘そのものも海へと沈んで消えていかんとする。
海に沈む直前、丘は今までに建ててきたすべての建物を一度に出現させ、さながら一個の歴史そのものになる。主人公はそこで、かつて結局伝えられずにいた少女への想いを伝えるために走り出すのだ。
町を去った後の少女がどこにいるのかは分からない。ただ、風の噂では結婚して遠い国に行ったという。
町がかつての姿を見せたとはいえ、それはあくまで幻のようなものに過ぎない。幻の少女に想いを伝えたところで、何かが変わるわけもない。
それでも主人公がそうせずにはいられなかった。主人公にとって「あの日」の少女に思いを伝えることにはそれ自体で意味があることだったからだ。それで現在の状況が何一つ変わることがなかったとしても、「あの日」に想いを伝えたという事実があれば、それが永遠になる。「町」はそういう場所なのだ。
ところで、今回感想を書くにあたって参考までにAmazonレビューを見ていたら、ラストに不満を抱いているレビューがちらほら見受けられた。
消えゆく「町」で少女に想いを告げた主人公の前に、あの頃と変わらぬ姿の少女が現れて主人公の手を取る。彼女が遠い国に嫁いだというのは噂に過ぎなかったようだ。
確かに、物語はここで終わってもよかったかもしれない。
「町」を物語の中心に据えるならば、「あの日の町」で主人公が少女に思いを伝えられた時点で、エンディングは迎えている。この後に現在の世界へと戻っていく主人公の姿をあえて描く必要はあるまい。
そうならなかったのは、私が思うに、この物語があくまでも彼らのものだからだ。
彼らの手元に―――変わっていく世界で生きていく、変わってしまった主人公たちの手元に、「変わらないもの」が残らねばならなかった。「今」にないものが「永遠」になることはない。
このような読み方が、私の個人的な好みに過度に寄り添ったものだという自覚はある。おそらく論理の飛躍や牽強付会も多分に含まれているだろう。普段「書かれていることを読む」を心がけている身としては忸怩たる思いもある。
だが、一つだけ言い訳をさせてもらうならば、町田洋は読者に分かりやすく語りかけてくるような作家ではない。むしろ、作品を通してぽつぽつと心の内を吐き出していくような、それを通してはじめて、かろうじて感情の微細な振動に触れうるような、そんな作家なのだ。
だからというわけではないが、私は今回、微細な振動に対する私の
果たしてこれが作品に対する誠実な態度なのかはあまり自信がないが、たまにはこういう回があってもよいということにしたい。