にわかあめ『サテライト・コインランドリー 1』

 寝違えて右を向けなくなりました。

 

 

 にわかあめ(よよはち×ナツノアメ)先生の『サテライト・コインランドリー』を読んだ。

 

※本ブログは作品の結末等のネタバレを含みます。

 

にわかあめ『サテライト・コインランドリー 1』KADOKAWA、2023年

 

 先に結論から述べさせてもらうと、個人的に本作はさほど面白かったというわけではない。

 ただ「こういうものを描きたかったのだろう」という意図は伝わってきたし、その中には光を放つ部分もあった。全体の論調が全体の評価に引っ張られてしまうのはやむを得ないが、できるだけフェアに長所短所の両方を紹介したいと思う。

(また、自信をもって面白いと言える作品に限定してしまうと、本ブログの持続可能性が危ぶまれるという事情もある。)

 

宇宙の片隅のコインランドリー

 例によって裏表紙に書いてあったあらすじを引用しよう。

 

 宇宙の片隅、水の豊かな星にある「サテライト・コインランドリー」。

 少女とクマ(?)が働くそのお店には、さまざま星からいろんなもモノを洗いに、今日もまた誰かが訪れる―――。(下線部原文ママ

 

 主人公のキリミは、少なくとも外見上は人間に見える少女だ。

 水に恵まれた、というよりほとんど水に覆われた星で、デフォルメされたクマのような容貌の「店長」のもと住み込みアルバイトとして暮らしている。彼女の働く店はコインランドリーで、豊富な水資源をもつ惑星は珍しいらしく、他の星からわざわざ服を洗濯してもらいに訪れるのだそうだ。

 

 こう書くとキリミのほのぼのとした、ちょっと不思議な生活が描かれている日常ものなのかと思われるだろうが、おおむねその通りである。

 

 だが、そういう作品として本作を読むと、今一つ面白みに欠けるというのが率直な感想だ。

 日常ものの「面白み」とは一体何か、という問いに答えるのは一筋縄ではないが、日常を描く限り「そこに生きているという感じ」は外すことができない、と思う。これは一言で言い換えるならば「リアリティ」ということになるのだろう。

 

フィクションに求められるリアリティ

 

 別に、ジブリ作品のように精緻であれという意味ではない。あらゆるフィクションにあてはまることだが、リアリティとは「説得力」なのだ。そこに描かれていることが現実的であるかどうかではなく、そこに描かれていることが「あるように感じられる」のかが大切なのだ。

(逆説的だが、現実世界は「現にそうである」ことによってこのリアリティを無条件に獲得している。「現実は小説より奇なり」などと言う人間は、この否定不可能なリアリティに幻惑されているに過ぎない。)

 

 そういう意味で、本作の「リアリティ」は脆弱と言わざるを得ない。

 例えば、作中に登場する客はみないかにも宇宙人然とした宇宙人だが、主人公は人間の姿をしている。主人公は特別なのかと思いきや、運送業者のイブキは成人男性に見えるし、雇われ用心棒のピニャコはアンドロイドだが、明らかに人間のフォルムを模して造られている。

 水上機のような形の「旧式宇宙船」が登場したかと思えば、気球のような形の謎の乗り物で宇宙を移動している描写もある。そもそもコインランドリーを訪れる宇宙人たちはどうやって星間航行しているのだろう?

 

 これらはそれ自体が問題というわけではない。作中に説明のつかないことの一つや二つあっても全然構わない。

 ただそれらが有機的につながり、「この世界ではこうなのだ」という説得力がなければ、それらはただ単に「説明のつかなかったこと」で終わってしまう。

 

 先ほど有機的につながる、という言い方をしたが、これには色んなやり方があるだろう。

 例えば、別々の話で登場したキャラクター同士が実は物語に描かれていないところで付き合いがあった、という描写があるだけでも話は違っただろう。あるいは逆に、回ごとに全然言っていることもやっていることもバラバラなら、まるで熱のある時に見る夢のようなナンセンスさで全体を串に刺すこともできる。

 もちろん正解のない話ではあるが、答えを出さずに済む話ではない。

 

実はシナリオ志向の作品か?

 ここまで批判めいたことを書いてきたが、これはあくまでも「日常もの」としてみた時の話だ。

 

 1巻の終わりに、少しだけストーリーが動くようなエピソードがある。

 コインランドリーにセレンという学者が現れ、宇宙を回遊しながらあらゆるものを呑み込み、新しい星のもとになる「星のカケラ」を吐き出していく「宇宙鯨」なる存在について説明する。そして、それが店長の失われた記憶を取り戻すカギであるというのだ。

 彼女の言うことには、コインランドリーのある星は「それはそれは美しい水の惑星」の衛星だった星で、鯨に飲まれたことで今のような姿になったという。素直に解釈すれば、これは地球と月のことだ。

 それが店長の記憶を取り戻すカギだということは、店長は地球の関係者ということになろう。

 

 これは私の持論だが、ストーリーやメッセージがある作品には必ずしもリアリティは必要ではない。

 

 もちろんあればあるに越したことはないのだが、必須ではない。なぜなら、そのストーリーを考え、メッセージを込めた「作者」自身が、作品全体の説得力を担保するからだ。これについてはひとつ極端な例があるので紹介したいが、今は割愛する。

 

 なので、もしこれがストーリーありきの作品ならば、先ほどまでのリアリティ云々のくだりは無駄に900字ほど費やしただけになり、内容次第ではこの作品に対する評価を改めることになるだろう。

(なお、本作はWEB媒体がもとなので続きは既に公開されていることと思うが、私は原則WEB媒体は追わないことにしている。)

 

キリミの無色透明さ

 さて、これでは結局何も言っていないではないか、という誹りは免れないように思うので、一つだけ重要と思われることを書いて終わりにする。

 

 それがキリミという主人公の「透明さ」だ。

 

 キリミは、作品全体において読者がその目を通して世界を見ることになる、疑いようのない主人公だ。

 だが、一方でキリミという人物を正面から見る時、そこに刻み込まれた情報の少なさに愕然とせざるを得ない。キリミは日夜コインランドリーの業務に励む勤勉な少女だが、決してそれ以上でもそれ以下でもない。彼女は状況に対して当たり障りのない対応をし、英雄的な活躍はせず、トリックスターのように物語を動かすこともしない。我々読者は彼女の言動に疑問を抱くことはないが、代わりに彼女の感情に共感することもない。

 

 このようなキリミの透明さが、果たして意図されたものなのかどうか。それはこの漫画の1巻を読んだだけでは分からない。

 ただ、もしもこれが意図されたものではなく、単に魅力的な主人公を造形できなかっただけなのだとすれば、それは日常ものとしてもストーリーものとしても瑕疵であって、端的に実力不足だと言わざるを得ないだろう。