熊倉献『ブランクスペース 1』

 前に書いた記事から、3週間以上経ってしまった。

 

 一応、週一くらいで更新していきたいとは思っているのだが、特に週末に余裕がないとなかなか難しい時もありそうだ。

 言い訳をさせてもらうと、先々週は出張で潰れ、先週は残業続きの疲労を回復するのに休日を費やしてしまった。すべて労働が悪い。

 

 というわけで、今回は熊倉献先生の『ブランクスペース 1』。

 

※本ブログは作品のネタバレを含みます。

 

熊倉献『ブランクスペース 1』小学館、2021年

 初出は2020年にWEB上で配信されたものらしい。

 世に出てから少々時間の経った漫画で、すでに続巻も出ているが、まあ個人的な感想を書くだけなので、あまり気にしないことにする。

(なお、第4刷のオビでは『このマンガがすごい!2022』でオンナ編第6位にランクインしたことを謳っている。この順位がどれくらいすごいのかはよく知らない)

 

あらすじ

 本作は、狛江ショーコ、片桐スイという二人の女子高生を主人公に展開していく物語である。

 ショーコは運動はできるが勉学はあまり振るわず、年頃の少女らしく恋に恋するごく普通の少女。

 そしてスイは、ショーコと対照的に本の虫で成績はよいが、これまた別の方向性で日々思い悩むごく普通の少女だ。

 スイには「空白」の物体を作り出すことができる特殊な能力があった。

 具現化系能力者、といえば分かりやすいだろうか。彼女曰く「想像のなかで部品を組み立て、現実に引っ張り出す」にだという。彼女が作り出す「空白」の物体は目に見えないが、触れることはできるし、動かせば音も発生する。「空白」のトースターを使ってパンを焼くこともできる(ちゃんと焼き上がりを知らせる音も鳴る)。

 だが何でもできる万能の超能力ではなく、制約もある。

 一つには、それを作り出すスイ本人が、その仕組みをちゃんと理解していなければいけないこと。何で出来ているか分からなかったり、なぜ動くのか分からないものは作ることができない。スイはこの制約をクリアするために、図書館にこもってさまざまな本を読み漁っている。

 さらにもう一つは、スイ自身、この能力を完全に制御できているとは言えないこと。たとえば作中には、スイが緊張したりイライラしたりしたとき、無意識のうちに「風船」が作られてしまう、というシーンがある。スイの思い通りになる便利な力、というよりは、スイの内側にある何かから発露するアンコントローラブルな力、といった方が相応しいだろう。

 ともあれ、この不思議な能力をきっかけとして、ショーコとスイは出会い友情を育むことになる。しかし幸福な時は長く続かず、クラス替えによって別々のクラスになったことで、二人は徐々に、だが決定的にすれ違い始める……というのが1巻の大筋になる。

 

感想

 さて、少なくとも1巻の時点では、物語はもっぱらショーコとスイという二人によって進行する。

 ただ、ショーコは「読者の目線」として設定されたキャラクターで、ストーリーの中心軸はスイにあると言えるだろう。クラス替えの後、いじめ行為の標的に選ばれてしまったスイが鬱屈した感情を蓄えるにつれて攻撃性を増していくことから、物語は動き出すのだ。

 彼女の内側に渦巻くものを、我々は窺い知ることができない。彼女は文学を好み、作中でも彼女の心象表現として石川啄木や西東三鬼の(決して朗らかとはいえない)短歌が引用されるが、彼女自身の言葉で語られることはごくわずかだ。私の目には、スイは「自分では持ち合わせていない言葉を借りるために」文学を好むタイプの人間に見えた。

 したがって、我々は断片的な引用と、端的な行為から彼女の心情を推し量るしかない。あくまで印象ではあるが、スイが抱える感情は、そうした表層に現れているよりもはるかに影濃く根深いのではないかという気がする。

 

 とはいえ、1巻はまだ起承転結の「起」よくて「承」くらいしか描かれていないだろう。1巻の引きはなかなか続きを読みたくなる仕掛けが光っていて、シナリオ全体の構成力もかなり期待できるような印象を受けた。今の時点で適当なことを言うのもかえって憚られるので、今回はこの程度で終わらせておきたい。

 3巻まで出ているそうなので、今度書店に行ったときにでも買うことにする。

にわかあめ『サテライト・コインランドリー 1』

 寝違えて右を向けなくなりました。

 

 

 にわかあめ(よよはち×ナツノアメ)先生の『サテライト・コインランドリー』を読んだ。

 

※本ブログは作品の結末等のネタバレを含みます。

 

にわかあめ『サテライト・コインランドリー 1』KADOKAWA、2023年

 

 先に結論から述べさせてもらうと、個人的に本作はさほど面白かったというわけではない。

 ただ「こういうものを描きたかったのだろう」という意図は伝わってきたし、その中には光を放つ部分もあった。全体の論調が全体の評価に引っ張られてしまうのはやむを得ないが、できるだけフェアに長所短所の両方を紹介したいと思う。

(また、自信をもって面白いと言える作品に限定してしまうと、本ブログの持続可能性が危ぶまれるという事情もある。)

 

宇宙の片隅のコインランドリー

 例によって裏表紙に書いてあったあらすじを引用しよう。

 

 宇宙の片隅、水の豊かな星にある「サテライト・コインランドリー」。

 少女とクマ(?)が働くそのお店には、さまざま星からいろんなもモノを洗いに、今日もまた誰かが訪れる―――。(下線部原文ママ

 

 主人公のキリミは、少なくとも外見上は人間に見える少女だ。

 水に恵まれた、というよりほとんど水に覆われた星で、デフォルメされたクマのような容貌の「店長」のもと住み込みアルバイトとして暮らしている。彼女の働く店はコインランドリーで、豊富な水資源をもつ惑星は珍しいらしく、他の星からわざわざ服を洗濯してもらいに訪れるのだそうだ。

 

 こう書くとキリミのほのぼのとした、ちょっと不思議な生活が描かれている日常ものなのかと思われるだろうが、おおむねその通りである。

 

 だが、そういう作品として本作を読むと、今一つ面白みに欠けるというのが率直な感想だ。

 日常ものの「面白み」とは一体何か、という問いに答えるのは一筋縄ではないが、日常を描く限り「そこに生きているという感じ」は外すことができない、と思う。これは一言で言い換えるならば「リアリティ」ということになるのだろう。

 

フィクションに求められるリアリティ

 

 別に、ジブリ作品のように精緻であれという意味ではない。あらゆるフィクションにあてはまることだが、リアリティとは「説得力」なのだ。そこに描かれていることが現実的であるかどうかではなく、そこに描かれていることが「あるように感じられる」のかが大切なのだ。

(逆説的だが、現実世界は「現にそうである」ことによってこのリアリティを無条件に獲得している。「現実は小説より奇なり」などと言う人間は、この否定不可能なリアリティに幻惑されているに過ぎない。)

 

 そういう意味で、本作の「リアリティ」は脆弱と言わざるを得ない。

 例えば、作中に登場する客はみないかにも宇宙人然とした宇宙人だが、主人公は人間の姿をしている。主人公は特別なのかと思いきや、運送業者のイブキは成人男性に見えるし、雇われ用心棒のピニャコはアンドロイドだが、明らかに人間のフォルムを模して造られている。

 水上機のような形の「旧式宇宙船」が登場したかと思えば、気球のような形の謎の乗り物で宇宙を移動している描写もある。そもそもコインランドリーを訪れる宇宙人たちはどうやって星間航行しているのだろう?

 

 これらはそれ自体が問題というわけではない。作中に説明のつかないことの一つや二つあっても全然構わない。

 ただそれらが有機的につながり、「この世界ではこうなのだ」という説得力がなければ、それらはただ単に「説明のつかなかったこと」で終わってしまう。

 

 先ほど有機的につながる、という言い方をしたが、これには色んなやり方があるだろう。

 例えば、別々の話で登場したキャラクター同士が実は物語に描かれていないところで付き合いがあった、という描写があるだけでも話は違っただろう。あるいは逆に、回ごとに全然言っていることもやっていることもバラバラなら、まるで熱のある時に見る夢のようなナンセンスさで全体を串に刺すこともできる。

 もちろん正解のない話ではあるが、答えを出さずに済む話ではない。

 

実はシナリオ志向の作品か?

 ここまで批判めいたことを書いてきたが、これはあくまでも「日常もの」としてみた時の話だ。

 

 1巻の終わりに、少しだけストーリーが動くようなエピソードがある。

 コインランドリーにセレンという学者が現れ、宇宙を回遊しながらあらゆるものを呑み込み、新しい星のもとになる「星のカケラ」を吐き出していく「宇宙鯨」なる存在について説明する。そして、それが店長の失われた記憶を取り戻すカギであるというのだ。

 彼女の言うことには、コインランドリーのある星は「それはそれは美しい水の惑星」の衛星だった星で、鯨に飲まれたことで今のような姿になったという。素直に解釈すれば、これは地球と月のことだ。

 それが店長の記憶を取り戻すカギだということは、店長は地球の関係者ということになろう。

 

 これは私の持論だが、ストーリーやメッセージがある作品には必ずしもリアリティは必要ではない。

 

 もちろんあればあるに越したことはないのだが、必須ではない。なぜなら、そのストーリーを考え、メッセージを込めた「作者」自身が、作品全体の説得力を担保するからだ。これについてはひとつ極端な例があるので紹介したいが、今は割愛する。

 

 なので、もしこれがストーリーありきの作品ならば、先ほどまでのリアリティ云々のくだりは無駄に900字ほど費やしただけになり、内容次第ではこの作品に対する評価を改めることになるだろう。

(なお、本作はWEB媒体がもとなので続きは既に公開されていることと思うが、私は原則WEB媒体は追わないことにしている。)

 

キリミの無色透明さ

 さて、これでは結局何も言っていないではないか、という誹りは免れないように思うので、一つだけ重要と思われることを書いて終わりにする。

 

 それがキリミという主人公の「透明さ」だ。

 

 キリミは、作品全体において読者がその目を通して世界を見ることになる、疑いようのない主人公だ。

 だが、一方でキリミという人物を正面から見る時、そこに刻み込まれた情報の少なさに愕然とせざるを得ない。キリミは日夜コインランドリーの業務に励む勤勉な少女だが、決してそれ以上でもそれ以下でもない。彼女は状況に対して当たり障りのない対応をし、英雄的な活躍はせず、トリックスターのように物語を動かすこともしない。我々読者は彼女の言動に疑問を抱くことはないが、代わりに彼女の感情に共感することもない。

 

 このようなキリミの透明さが、果たして意図されたものなのかどうか。それはこの漫画の1巻を読んだだけでは分からない。

 ただ、もしもこれが意図されたものではなく、単に魅力的な主人公を造形できなかっただけなのだとすれば、それは日常ものとしてもストーリーものとしても瑕疵であって、端的に実力不足だと言わざるを得ないだろう。

優しい内臓『死神ドットコム 2』

 ブログ、はじめました。

 

 

 とりあえず積みに積んだ漫画の山を崩しがてら、感想などを徒然と書いていくことにする。

 

 さて記念すべき第1回目は優しい内臓先生の『死神ドットコム』2巻。

 初回からとくに有名でもない作品の途中巻を取り上げるのは正直どうかと思うが、このブログは積読タワーの一番上に置いてあったものから扱っていく予定なのでこういうこともある。

 

 とはいえ、本作はこれが最終巻なので、今回は2巻とは銘打ちつつも作品全体について話していきたい。

 

※本ブログは作品の結末等のネタバレを含みます。

 

優しい内臓『死神ドットコム 2』芳文社、2023年。

 

 初版(重版がかかるおまじないとしてあえてこう言っておく)のオビ文は「人生のどん底で、友情だけはきらめいた。」個人的にはなかなかいいアオリだと思う。

 

 あらすじについては裏表紙に簡潔にまとめられていたので、引用させてもらおう。

 

 ポンコツ社畜死神・メルメルは、ギャンブル大好き借金OL・タマと訳あってボロアパートで二人暮らし中。

 タマの魂をもらう代わりに借金1000万円の返済を手伝うという契約をしたが、借金は増える一方だし、タマのストーカーやドSな大家が襲来してくるし、人間界ってほんとうに恐ろしいところだ……。

 

どうしようもない連中の、案外どうとでもなる日常

 

 あらすじを引用した通り、この漫画は死神・メルメルと、人間・タマが出会うところから始まる日常系コメディ漫画だ。

 

 ここでいう「死神」は、人間の魂を回収することを業務として行うサラリーマン。それも「願いを一つ叶える代わりに魂をもらい受ける」という契約を結ぶことで回収する、非常にビジネスライクな存在である。

 死神のメルメルはあまりの営業成績の悪さから、パワハラ上司によって魂の回収に成功するまで天界に戻ることを禁じられてしまう。

 

 一方のタマは、連帯保証人になった人物が事故死したために1千万円の借金を背負うことになった薄幸の女性……というには少々生き汚すぎる人物だ。

 彼女はちゃんとOLとして働いていて(!)、しかし給料日にパチンコで万単位を溶かし、雑草と雨水で糊口をしのぎ、嗜虐趣味をもつ大家の玩具となることで家賃を免除してもらって生きるような、並外れたタフさを持っている。

 

 タマの魂をもらう代わりに借金を返済するという契約を結んでしまったメルメルは、天界に帰ることもできず、タマのボロアパートで同居するうちに、だんだんとタマの限界生活に馴染んでいく……というのが大筋である。

 

30年に一度の超大型台風をものともせず、食料調達に励むメルメルとタマ。

 

 こんな連中がメインキャラなので、他の登場人物もさぞ頭のネジが外れているのだろうと思われるが(そして実際にネジの外れた奴もいるが)、意外なことにタマたちはまともな人間に囲まれている。

 

 例えば、タマの借金を取り立てに来る借金取りの男は、取り立て対象であるはずのタマに不覚にも惚れかけ、恋心と理性との間で懊悩したりする、人間味のあるキャラクターだ。

 キャリア組として活躍する死神・チルチルは、一方で妹メルメルを溺愛する姉バカである。メルメルもまた、口では鬱陶しがりつつも、姉のことを大切な家族だと思っている。

 

 どうやっても生活が破綻していく二人と、それを取り囲む意外なほどまともな世界。

 これが本作の基本的な世界観になる。

 

タマの中にある「余白」

 

 さて、タマはギャンブル中毒、アルコール中毒、ニコチン中毒と三拍子そろったダメ人間なのだが、決して悪人ではない。

 貧困の中にあっても日々の喜びを見失わず、投げやりになることもなく、小さな幸福を誰かと分け合うことができる。ただ欲望に忠実で、頭がからっぽなだけだ。

 

 そして空っぽであるがゆえに、時に異常ともいえる他者を受け入れることができる「余白」をもっている。

 

 容赦なく取り立てに来る借金取りも、立場を利用して「ネコちゃんごっこ」を強要してくる生粋のサディストも、犯罪すれすれのストーカーも、自分の魂を狙う死神さえも、タマは一人の人間として受け入れることができる。

 タマのもつこの「余白」こそが、この物語を成立させていると言っても過言ではない。

 

本当に空っぽだった人間

 

 それがはっきりと描かれるのは、終盤にノノという人物が現れるときだ。

 彼女は「天使」であり、タマに借金を押し付けて死んだ張本人である。なお、本作における「天使」は転生できない人間がなるもので、メルメル曰く「ろくなやつがいない」。

 

タマとメルメルの前に現れたノノ。くわえた煙草はタマから拝借したもの。


 ノノは人から金を借りてバックレることになんの呵責も感じない本物のクズだ。

 結果としてタマに借金を押し付ける形になったことについても、「タマが選んできた結果でしょ? 私悪くなくない?」と堂々と開き直ってみせる。このような人間さえ受け入れてしまうタマの余白の広さには感嘆するばかりだ。

 何も持っていない「空っぽ」のノノは、同じように「空っぽ」なタマに一種の執着を示していた。


 ノノが競馬で儲けた金によって借金を完済したタマは、契約に従い魂をメルメルに差し出すことになる。「商品」となったタマの魂は天界の競売にかけられ、ノノは「かわいそうだから」とその魂を買おうとするが、もう一人、全財産を叩いてでもタマの魂を買い戻そうとする人物がいた。

 

 メルメルだ。

 

 

 資金力で競りの優位に立つノノだが、メルメルの真っすぐな告白に心が揺れる。

 

 私は…… タマに何かしてやったことがあっただろうか

 いいように使ったうえに借金押しつけて死んだのに、再会したとき笑ってくれて嬉しかった

 いつももらってばっかで返したことない

 想いも伝えたことない

 

 ノノはタマと同じように空っぽだったかもしれないが、ノノは空虚な内側に誰の存在も許さず、誰の内面にも踏み込もうとしなかった―――唯一自分に心を許してくれたタマにさえ。

 心が折れたノノが下り、無事にタマの魂を買い戻すことができたことで、この物語は幕を下ろす。

 

 全体の読後感としては、日常系コメディという枠の内側にとどまりながら、その枠を成り立たせている各登場人物の精神的つながりにも光が当てられる、読みがいのある漫画だったように思う。

 

 

 ちなみに、今回はタマに焦点を当てて感想を書いたが、読んでいて引き込まれたのはむしろメルメルの方だった。メルメルには普通の人間としての感性と、仕事として人を殺す「死神」としての感性を歪に併せ持つキャラクターである。彼女から見た世界がどうなっているのかについても考えてみたが、うまく考えがまとまらなかったので割愛することにした。

 

 

 

 本当はもっとフランクに感想を書くだけのつもりだったが、少しがんばりすぎてしまった。

 持続可能なブログのために、次からは雑に書くことを意識したい。